第52話 『女坂の悲劇――かえらずの坂』
その坂は、選んではいけない。
理由もなく、気まぐれで足を踏み入れてはいけない道というものが、この世には確かに存在する。
京都・東山、清水寺へと向かう道のひとつ、女坂。
男は、その道を選んだ。
観光地図を片手に、ただ静かな道を歩きたいというだけの理由で。
午後五時を過ぎたばかりだった。
夕陽が山の端に傾きはじめ、辺りに赤黒い陰影が広がっていた。
石畳には、木々の影が細かく網のように落ちていた。
肌に感じる空気は、なぜかひどく湿っていた。
「……こっち、通る人が少なくて正解だったな」
男は独り言を呟いた。
仕事での疲れと、人混みによる苛立ちが薄れていくのを感じていた。
細い路地を抜けて女坂に入ったとき、確かに風景は変わった。
人の声が、途端に聞こえなくなったのだ。
坂の入口には、石に刻まれた立て札があった。
「女坂 足元注意」
注意書きはそれだけ。だが、その石には何か妙な――祈りのような気配があった。
そのときは気にも留めなかった。
坂を下るにつれて、周囲の空気がどこか淀みはじめた。
石垣が古く崩れかけ、左右の塀の隙間からは、苔むした祠や石仏が覗いていた。
その石仏が、ひとつ、またひとつ、どこか不自然な数で並んでいる。
「……こんなに、あったか?」
不安が喉に詰まり、男は無意識に早足になった。
すると、背後から。
コ、コ、コ……と草履の音。
振り返った。誰もいない。
風の音もない。
ただ、どこかで女の声のようなものが、微かに響いた気がした。
――返して。
空耳だと笑おうとしたが、唇が動かない。
喉が乾ききって、息を呑む音すら出なかった。
額に冷や汗が滲む。
再び歩き出そうとしたとき、左手の石仏の顔が、ふと目に入った。
その顔は……見覚えがあった。
自分だ。
自分と、そっくりの顔が、無数の石仏に刻まれている。
「……な、んで……?」
ざあっ、と風が吹いた。
紙垂のように白い何かが、目の前を横切った。
視界の先に、女が立っていた。
白い着物に乱れた黒髪。顔は見えない。
ただ、目だけが異様に赤く光っていた。
まるで深い井戸の底から、覗き返すような眼差しだった。
男は声にならない悲鳴をあげ、逃げようと坂を駆け下りた。
だが、道はどこまでも続き、出口が見えない。
同じ祠、同じ石仏が何度も視界に現れ、世界がぐるぐると回っていた。
やがて、足が止まった。
心臓がばくばくと鼓動し、視界の端が滲んでいた。
立ち尽くす男の背後で、再び草履の音が鳴った。
コ、コ、コ……
ふと振り返る。
そこには、何もない。
いや、何もないのに、風だけがそこを通っていた。
――女坂には、帰らぬ男の霊が彷徨うという。
その者たちは皆、自分が消えたことにも気づかぬまま、毎夕、観光客のあとを静かについてくるのだ。
だから、あなたがもし、背後に草履の音を聞いたなら。
決して、振り返ってはならない。
そこには、あなたの“顔”をした何かが、もうひとり、立っているかもしれないのだから。
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