第53話 『向月台の眼――銀閣寺・満月の怪』
銀閣寺。
その静寂に包まれた庭園のなか、侘び寂びを体現する美の極致として名高いその場所に、ひときわ異様な存在感を放つ白砂の構造物がある。
向月台――月を愛でるために築かれたとされる、円錐形の白砂の山。
だが、その真の意味は、誰にも解き明かされていない。
これは、大学の天文サークルに所属する青年・斎藤悠人が体験した、満月の夜の一夜の恐怖である。
*
その夜は、完璧な満月だった。
空は雲ひとつなく、湿気もなく、空気は肌にひやりと心地よかった。
特別公開の夜間拝観に訪れた悠人は、天文写真の撮影を目的に銀閣寺を訪れていた。
彼は向月台の脇にそっと三脚を立て、機材を整えながら息を整える。
人の少ない夜の庭園は、不思議なほど静まり返っていた。
蝉の声もない。ただ、遠くで微かに木々が揺れる音がするだけ。
「……やっぱり、ここからだと月がよく見えるな」
悠人はファインダーを覗き込み、シャッターの角度を調整する。
その瞬間、ふと視界の端に、何かが映った。
向月台の頂点――白砂の鋭い山の先端に、黒く染まった奇妙な“影”のようなもの。
最初はレンズの不具合かと目を瞬かせた。
だがそれは、ゆっくりと、確かに“彼”を見返していた。
眼だった。
人間のものではない。爬虫類のように縦長で、冷たく濁った黒い光が月明かりの中できらりと光る。
悠人は反射的にカメラから目を離したが、肉眼では何も見えない。
「……なんだ今の……」
喉が乾き、冷や汗が背を流れる。
心臓の鼓動が、カメラのシャッター音のように耳に響く。
意を決して再びファインダーを覗いた悠人の目に、さらなる異様が映った。
向月台の斜面、その白砂の面に……無数の“手”が生えていた。
それは人間の手ではなかった。
細長く、節くれ立ち、砂の中から這い出ようと蠢いていた。
「……っ!」
全身が凍りつく。
目をそらそうにも、首が動かない。
そのときだった。
頭上、いや、脳の奥から、声のような音が響いた。
それは耳で聞く音ではない。
夢の中で誰かに囁かれるような、異様に近く、異様に遠い声。
――見つけた。
悠人の視界が、突然真っ白に塗り潰された。
現実の音が消え、風の気配が止み、ただ月の光だけが肌を焼くように突き刺さる。
砂の山の上、あの“眼”が、明らかにこちらを見つめていた。
悠人は、月を撮っていたはずだった。
なのに、撮っていたのは――“月のフリをした何か”だった。
*
翌朝、銀閣寺は普段と変わらぬ静けさを取り戻していた。
だが、庭園の片隅にぽつりと置かれた木製の立て札には、筆で書かれた注意書きがあった。
『満月の夜、向月台に背を向けること』
その文字はかすれており、いつ書かれたのかも、誰が書いたのかも分からない。
ただひとつ、監視カメラの記録には異変が残っていた。
深夜二時過ぎ、庭園に誰の姿もないにもかかわらず、向月台の頂点にだけ、“光る眼”がふたつ、じっとこちらを見上げていた。
それは、悠人がファインダー越しに見たものと、まったく同じ“眼”だった。
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