第53話 『向月台の眼――銀閣寺・満月の怪』

 銀閣寺。


 その静寂に包まれた庭園のなか、侘び寂びを体現する美の極致として名高いその場所に、ひときわ異様な存在感を放つ白砂の構造物がある。


 向月台――月を愛でるために築かれたとされる、円錐形の白砂の山。


 だが、その真の意味は、誰にも解き明かされていない。




 これは、大学の天文サークルに所属する青年・斎藤悠人が体験した、満月の夜の一夜の恐怖である。







 その夜は、完璧な満月だった。


 空は雲ひとつなく、湿気もなく、空気は肌にひやりと心地よかった。


 特別公開の夜間拝観に訪れた悠人は、天文写真の撮影を目的に銀閣寺を訪れていた。




 彼は向月台の脇にそっと三脚を立て、機材を整えながら息を整える。


 人の少ない夜の庭園は、不思議なほど静まり返っていた。


 蝉の声もない。ただ、遠くで微かに木々が揺れる音がするだけ。




 「……やっぱり、ここからだと月がよく見えるな」




 悠人はファインダーを覗き込み、シャッターの角度を調整する。


 その瞬間、ふと視界の端に、何かが映った。




 向月台の頂点――白砂の鋭い山の先端に、黒く染まった奇妙な“影”のようなもの。


 最初はレンズの不具合かと目を瞬かせた。


 だがそれは、ゆっくりと、確かに“彼”を見返していた。




 眼だった。


 人間のものではない。爬虫類のように縦長で、冷たく濁った黒い光が月明かりの中できらりと光る。


 悠人は反射的にカメラから目を離したが、肉眼では何も見えない。




 「……なんだ今の……」




 喉が乾き、冷や汗が背を流れる。


 心臓の鼓動が、カメラのシャッター音のように耳に響く。




 意を決して再びファインダーを覗いた悠人の目に、さらなる異様が映った。


 向月台の斜面、その白砂の面に……無数の“手”が生えていた。


 それは人間の手ではなかった。


 細長く、節くれ立ち、砂の中から這い出ようと蠢いていた。




 「……っ!」




 全身が凍りつく。


 目をそらそうにも、首が動かない。


 そのときだった。




 頭上、いや、脳の奥から、声のような音が響いた。


 それは耳で聞く音ではない。


 夢の中で誰かに囁かれるような、異様に近く、異様に遠い声。




 ――見つけた。




 悠人の視界が、突然真っ白に塗り潰された。


 現実の音が消え、風の気配が止み、ただ月の光だけが肌を焼くように突き刺さる。


 砂の山の上、あの“眼”が、明らかにこちらを見つめていた。


 悠人は、月を撮っていたはずだった。


 なのに、撮っていたのは――“月のフリをした何か”だった。







 翌朝、銀閣寺は普段と変わらぬ静けさを取り戻していた。


 だが、庭園の片隅にぽつりと置かれた木製の立て札には、筆で書かれた注意書きがあった。




 『満月の夜、向月台に背を向けること』




 その文字はかすれており、いつ書かれたのかも、誰が書いたのかも分からない。




 ただひとつ、監視カメラの記録には異変が残っていた。


 深夜二時過ぎ、庭園に誰の姿もないにもかかわらず、向月台の頂点にだけ、“光る眼”がふたつ、じっとこちらを見上げていた。




 それは、悠人がファインダー越しに見たものと、まったく同じ“眼”だった。


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