第51話 『狐の嫁入り――ねねの道の奇譚』
その日、京都は絵に描いたような秋晴れだった。
風は穏やかに木の葉を揺らし、円山公園の紅葉はまるで手鞠のように色づき始めていた。陽射しは斜めに傾き、石畳をまばらに照らし出す。銀杏の葉がはらりと落ちるたび、地面に舞い落ちる黄金色の記憶がそこに刻まれていくようだった。
私は恋人と並んで歩いていた。手のひらが触れ合う感覚が、初秋の空気のなかにやさしく溶け込んでいた。
「やっぱり京都って、空が高いね」
そう言って彼女がふと空を仰ぐ。その横顔は日差しに照らされ、まるで絵巻の中の人のように静かに美しかった。
ねねの道へと抜ける石畳の道にさしかかると、不意に風が変わった。
生ぬるく、湿気を孕んだ風が、私たちの間をすり抜けていく。
「ん……?」
ぱら、ぱら……と髪に冷たい感触。
見上げれば、空には一片の雲もない。それでも雨粒だけが確かに私たちを打った。
「え……雨……? 変なの」
彼女も不思議そうに空を見上げ、眉を寄せた。
周囲の観光客も戸惑っていた。誰もが傘を持っておらず、スマートフォンで空を確認する者もいたが、天気予報アプリには「晴れ」の表示しかない。
それなのに、雨だけが確かに降っていた。
私は、妙な胸騒ぎを覚えた。心臓がじわりと冷たくなり、手を繋いだ指先から体温が失われていく感覚。
そして、ねねの道の中ほど──石垣と木塀に挟まれた狭い一角に差しかかったときだった。
向こうから、行列がやってきた。
静かに、しかし確かに足音を響かせながら、まるで異世界の裂け目から流れ込んできたように。
白無垢に身を包んだ花嫁。
彼女の後ろには、赤い提灯を持った童子たちが並び、その背後には白装束の男たちが静かに従っていた。
そして、列の最後尾には狐面をかぶった女たち。
提灯の火は風もないのにゆらめき、影が石畳に踊った。
誰も彼らに目を向けていない。
周囲の観光客は、あたかも“そこに何も存在しない”かのように、その行列の横をすり抜けていた。
「……やばい……」
背中に冷たい汗が伝う。
私は反射的に彼女の手を引こうとした。
しかし、指先にはもう、ぬくもりがなかった。
振り返ると、そこには誰もいなかった。
視線を上げたとき、私は絶句した。
行列の最後尾──狐面の女たちの一人が、こちらを向いていた。
その手には扇子。扇の隙間からのぞく唇が、微笑んでいた。
その女は、彼女だった。
「……うそ、だろ……?」
世界が音を失った。
喧騒が消え、風も止まり、ただ、耳鳴りのような音が遠くから響いてくる。
私は一歩、また一歩と足を踏み出した。
行列はゆっくりと進み、彼女もまた、その一部となっていた。
その姿は美しかった。
でも、どこか違っていた。
目が、焦点を結んでいなかった。
「返して……」
そうつぶやいた瞬間、雷でもなく風でもない、どこか“声”のような振動が空から響いた。
気づけば私は、ただの雨の中、濡れた石畳の上にひとり立っていた。
狐の行列も、彼女の姿も、すでにどこにもなかった。
観光客のざわめきとカメラのシャッター音が戻ってくる。
だが、私の時間だけが、取り残されたように止まっていた。
後日、資料を調べて知った。
このあたりには、「晴れた日に狐の嫁入りを見た者は、大切な人を奪われる」という古い言い伝えがあるのだという。
それ以来、私は何度もこの道を訪れた。
雨が降るのを待ち、空が青いのを確かめてから歩く。
でも、行列にはもう出会えない。
彼女も戻ってこない。
ただ、ある日。
狐面の絵が描かれた小さな絵馬が、ねねの道の塀に結びつけられているのを見つけた。
それにはこう書かれていた。
――また、いつか、会えるよね。
その字は、彼女の字だった。
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