第49話 『三十三間堂の残響』

 それは、たまたま訪れた京都旅行の三日目だった。


 夏の終わりの午後、私は三十三間堂にいた。




 千体の千手観音像が並ぶ荘厳な空間。


 天井の高みからさす陽光が、仏像の金色を淡く照らしている。


 カメラを構えるのもはばかられるような、静けさと神々しさ。


 観光客の数も少なく、館内には足音と囁き声だけが響いていた。




 ふと、私は“それ”に気づいた。




 千体仏の列の隙間、ちょうど中央付近。


 何かの“気配”が、ある。




 風がないのに、袈裟の端が揺れた。


 そして──視界の奥に、黒と赤の影が入り込んできた。




 武士だ。


 髷を結い、裃かみしも姿。


 だが、その時代錯誤の姿は、現代人が着た仮装などではなかった。


 どこか、ぬめりとした輪郭の不確かさと、決して“生きていない”気配。




 「──尾張か」




 低く、怒気を含んだ声が空気を震わせた。




 「討たせてもらうぞ、紀州よ」




 空間が、割れた。


 それは“幻”などではなかった。




 千体仏のあいだから、二陣の武士団が現れたのだ。


 黒と赤の陣羽織、槍、刀、脇差。


 そして、睨み合い。




 私は、動けなかった。


 時間が止まったように、ただそこにいた。




 「これは……昔の……あの、武者射ち?」




 三十三間堂は、かつて武士たちが弓の腕を競い合った場だった。


 中でも有名なのが、尾張藩と紀州藩の弓術競技。


 名誉と立場をかけた対決。


 だが、記録には残らぬ“争い”が、あったのかもしれない。




 突如として、場が爆ぜた。


 掛け声とともに、互いの武士が交差し、斬り合いを始めたのだ。


 音はなく、だが動きは明瞭。


 床に刀が当たることも、叫び声も、ない。


 まるで“無音の劇”を見せられているかのように。




 けれど私は、はっきりと“血の匂い”を感じた。


 古びた血が、木床に染みたような、鉄錆の臭気。




 そのとき、千体仏の一体が、こちらを向いたように見えた。


 無表情で、ただ、首だけが、ゆっくりと──私を。




 「ダメだ」




 誰かの声がした。


 女の声。はっきりと、耳元で。




 「見たら……戻れなくなるよ」




 その瞬間、視界が弾けるように真っ白になり、私は気を失った。




 目を覚ますと、外の縁側に寝かされていた。


 係員が心配そうに覗き込んでいた。


 「暑さにやられたんでしょう。気をつけてくださいね」




 私は頷いたが、汗が止まらなかった。




 後日、地元の図書館で調べると、確かに尾張藩と紀州藩が三十三間堂で弓競技をした記録はある。


 が、その年──ある武士同士が、互いに矢を向け、館内で斬り合いとなったと記された逸話が見つかった。




 双方とも重傷を負い、その場で亡くなったという。


 事件は幕府の命により“無かったこと”にされた、と。




 あの日、私が見たのは“その時”だったのだろうか。




 それ以来、私は三十三間堂に足を踏み入れていない。


 たまに、夢の中であの千体仏の列に立つことがある。


 そのときは決まって、武士たちの斬り合いの中に、自分がいる。




 そして、背後からあの声がささやくのだ。




 「見た者は、並ぶのだ」




 「ここに、永遠に──」


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