第48話 『右流左死──天神さまの祟り』
その日、私は北野天満宮の裏手にある御土居を訪れていた。
夏も終わりに近い夕暮れ時。大学の卒論で「天神信仰と都市伝説の関係性」を調べていた私は、学問の神・菅原道真にまつわる場所を巡っていた。
御土居は人気もなく、木々が生い茂っている。足元は湿っていて、苔が繁殖し、ぬるりとした感触が靴裏を滑らせた。夕日が差し込む木漏れ日すら、どこか黄ばんで見える。
ふと、石畳の隅に目をやると、古びた石に文字が彫られていた。あまりに風化していて読みづらかったが、スマートフォンの光をかざすと、その文字が浮かび上がった。
──〈左に行くべからず〉。
その瞬間、風が止んだ。
ざわめいていた木々が、いきなり沈黙したかのように感じた。
「……左へ……行くのだ……」
背後から聞こえたのは、湿った地の底から染み出したような声だった。人のものとは思えない。耳元でささやかれたような気がして、反射的に振り返った。
誰もいない。
それでも、私は引かれるように左足を一歩、踏み出していた。
すると──目の前の風景が、音もなく塗り替えられた。
朱雀門の前。かつての平安京。ざわめきと埃と、焼けつくような日差し。
群衆の中で、一台の牛車が進んでいく。人々はうつむき、すすり泣く者もいた。だが、その誰もが、何かに怯えるような顔だった。
牛車の中にいる男──それが菅原道真であると、私は直感した。
彼の目は黒く濁り、唇からは血が流れていた。その血が、牛車の敷物にじわりと染みていく。
そして、彼の目が、私を捉えた。
「左に流したな……お前も……朽ちよ……」
低い呪詛のような声が、胸の奥に直接響く。体の芯が凍りついたように、声が出なかった。
気がつくと、御土居の地面に膝をついていた。息が苦しい。額には冷や汗が浮かび、手のひらは泥にまみれていた。
背中に、重くのしかかる何かの“念”がまとわりついている。
その夜、宿に戻った私は高熱を出し、ベッドでうなされた。夢の中、何度もあの声が耳元で囁く。
「左に……左に……」
翌朝、鏡を見ると右目が腫れ、血走っていた。まるで、雷にでも打たれたように。
帰路につく前、私はもう一度、北野天満宮を訪れた。恐怖に負けていたのだ。きちんと詫びねばならない──そんな気持ちだった。
境内の絵馬掛けに、ひとつだけ色褪せた絵馬がぶら下がっていた。
その筆跡は、震えていた。
──「左へ行きました。戻れません。ごめんなさい」
私は、無言で手を合わせた。
それ以来、私は左側の道を歩くことができない。信号待ちでふと左を見たとき、あの目が、こちらをじっと見ているような気がするからだ。
学問の神は、決して優しく微笑むだけの存在ではない。
忘れてはならない。あの道を、左に進めば、戻れなくなる。
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