第41話 『見えない鉾』
宵山の夜。四条通は光の海だった。無数の駒形提灯が頭上に揺れ、道には浴衣姿の人々がひしめいている。屋台の焼きそば、うちわを仰ぐ手、鈴の音。夏の京都が、息づいていた。
「うわ、すごいな……」
僕はカメラを首から下げ、汗を拭いながら人波に紛れていた。
シャッターを切るたびに、どこか異物のようなざわつきを感じていた。祭の華やかさの裏で、何かが静かにひっそりと、こちらを見ている気がした。
そのときだった。
「来るで! 見えん山が通る!!」
割れるような声が通りに響いた。
周囲がピタリと静まり返る。
声の主は、白髪を乱した老婆だった。腰を曲げ、震える手を広げ、群衆を押しのけるように前に出てきた。
「はよどかんかい! どかんと、轢かれてまうで!」
通行人たちは一瞬たじろいだが、すぐに笑い声とざわめきが戻る。
「誰かの演出か?」「観光客のコスプレ?」「なんや、ビビらせやがって」
そう言いながらも、人々は老婆の迫力に圧され、じわじわと道の中央を空けていった。
だが、そこには何もなかった。
鉾も山も、何ひとつ、通っていない。
僕は思わずカメラを構えた。その“空白”が気になったのだ。
「う……あ……」
低いうめき声が背後から聞こえた。
振り返ると、若い男が胸を押さえてうずくまっていた。苦悶の表情で肩を上下させ、目は大きく見開かれている。
「け、健太!? どないしたん!?」
隣にいた女性が叫び、周囲が騒然とする。
「誰か! 救急車! 誰か呼んで!」
僕の指は反射的にシャッターを切っていた。人のざわめき、女の悲鳴、目の前で倒れた男の蒼白な顔……
そして、その奥。
老婆の姿は、もう消えていた。
その夜、ホテルでデータを確認していると、一枚だけ妙な写真があった。
観光客が倒れる数秒前。通りの真ん中に、人々が避けるように開けた“空間”が写っていた。
誰もそこにはいない。
なのに、人々の身体がその空間を避けるように反っている。
写真中央の一部だけ、微かに歪んでいた。
翌朝、その出来事はニュースにならなかった。
知人のつてで聞いた話によれば、倒れた男性は軽い打撲とされ、病院で一晩の検査で退院した。
だが、医者が言ったそうだ。
「胸にね、不自然な圧迫の痕があったんですよ。まるで……重い何かに押されたみたいな痕が」
数日後、祭りの関係者に頼んで、通りの監視カメラ映像を確認させてもらった。
そこには、人波が左右に避ける奇妙な動きが映っていた。
あたかも、目に見えぬ巨大な何かが通るのを避けるように。
老婆の姿も、一瞬だけ映っていた。
白髪をなびかせ、笑っていた。
音声はなかったはずなのに、僕の耳にははっきりと、あの声が響いていた。
「どきなされ……轢かれてまうで……」
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