第42話 『不思議展の標本』
あれは、ちょうど二十年ほど前。まだスマートフォンも普及しておらず、SNSという言葉もなかった時代。僕は京都の「みやこめっせ」で、夜間の施設警備員の仕事をしていた。
そのとき開催されていたのが、『人体の不思議展』だった。
本物の人間の遺体を特殊な処理で保存し、標本として展示するという、衝撃的な内容だった。骨、筋肉、血管、神経までもが生々しく露出した“人体”が、まるで彫刻のように並べられている。
薄暗い展示室に入った瞬間、空気が変わった。冷房のせいだけではない、体温を拒むような無機質な冷気。あれは“死者”の持つ空気だったのかもしれない。
「……なんや、やっぱ気持ち悪いな」
初日の夜、展示室を一巡した帰り際に、同僚の坂本さんがぽつりと漏らした。
「人間って、ここまで剥き出しにされるもんなんやなあ……」
彼の声には、好奇心というより、畏れが滲んでいた。
僕も同じだった。最初の数日は、どの標本の前に立っても背筋がじんと冷えた。だが、慣れとは恐ろしいもので、三日もすれば感覚は鈍っていった。
それが“起こった”のは、四日目の夜。
午前二時を過ぎたころ、展示室の見回りに入った。
誰もいないはずの会場で、ふと、床が軋んだような音がした。
「……?」
足を止め、耳を澄ます。
──いたい……いたい……
空調の音ではなかった。かすれた、小さな、けれど確かに“人の声”だった。
「誰かいるんですか?」
思わず声を張ったが、返事はない。ただ、その声は──標本がずらりと並ぶ中央通路の奥から、微かに、確かに届いていた。
「……坂本さんのイタズラか……?」
独り言を呟きながら照明をつけ、足早に通路を進む。
そして、あの標本の前で足が止まった。
筋肉が剥き出しになった男性の全身標本。
両腕を横に広げ、表情はない。だが──その頬に、水滴のようなものが一筋、つたっていた。
「……汗? そんなわけ……」
標本は完全な防腐処理を施されている。水分など、出るはずがない。
背中に嫌な汗がじっとり滲んだ。
その夜、休憩室に戻ると、別の警備員が話していたことを思い出した。
「なあ、あの標本……出所、ほんまに安全なんやろか」
「中国の刑務所とか、政治犯とか、聞いたことあるで。法輪功とか、勝手に……」
くだらない噂話だと思っていた。でも今は違う。僕の背後に、誰かの“目”を感じていた。
翌夜、モニター室で展示室の映像を眺めていた。画面の奥、あの標本が、かすかに“揺れた”。
「……えっ……」
誰もいないはずなのに、指先だけが微かに震えていた。
我を忘れて展示室に駆け込んだ。標本は動いていなかった。元の姿勢のままだった。
ただ、説明パネルが一枚、床に落ちていた。
拾い上げて裏返すと、そこには指でなぞったような跡が、薄く書かれていた。
──ここに いる
それを見た瞬間、吐き気がこみ上げてきた。
数日後、僕は体調不良を理由に勤務を外された。
だが、本当の理由は分かっていた。
あの夜から、眠っていても、夢の中で誰かが僕を見つめている。
『いたい……いたい……』
くぐもった声が、布団の下から聞こえる。
あの展示は、その後もしばらく全国を巡回した。
標本の出所については、やがて複数のメディアが「中国の無断提供遺体の可能性」を報じ始めた。
でも、あの夜、僕が聞いた声は、報道なんかよりもずっとはっきりと、真実だった。
あの展示室の片隅、誰にも知られず、何の同意もなく“展示”されていた人間。
あの目が、僕を見ていた。
「ここに、いるんや」
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