第35話 『動かぬ山、泣く子』
宵山を終えた翌朝、空は曇天。
梅雨の残り香を含んだ湿気が、石畳に重く沈んでいた。京都・室町通にひっそりと残る小さな山鉾町では、例年通り、山鉾の曳き出しが始まろうとしていた。
古くから伝わるこの町の山は「白桐山」。大きな白桐の絵を懸装品に据え、静かで気品ある佇まいが特徴だった。町内でも高齢の氏子たちは、この山を“しろきりさん”と親しみを込めて呼ぶ。
「ほな、いきまひょか」
木槌の音が鳴り、掛け声とともに曳き手たちが綱を握る。白半纏に手ぬぐい、鼻緒の擦れる音――京都の夏が、またひとつ動き出すはずだった。
だが。
……山は、動かなかった。
「おかしいな、軸回りは昨日、確認済みやのに」
「車輪もちゃんと整うてる。……何やろな、これ」
曳き手たちは何度も掛け声を合わせ、力を込める。しかし、山は軋みすらせず、まるで地中に根を張ったように、その場に留まり続けた。
湿気に混じって、不穏な空気が漂いはじめる。
そして、静けさを破ったのは――
「ひっく……えぐっ、うわああああん!」
突如、町角にいた一人の幼児が泣き出した。年端もいかぬ男の子、名を宗太という。
その子は、町の若夫婦の子で、今日が初めての山鉾見物だった。浴衣姿の母に抱かれていた彼は、さっきまでおとなしく団扇を振っていた。
泣き声は、尋常ではなかった。
肩を震わせ、瞳は何かを見ている。だが、大人たちには何も見えなかった。
「……おにいちゃん……やめて……ひっぱらんといてぇ……!」
宗太の口から漏れたその言葉に、町中の空気が凍った。
母親が慌てて「どうしたの、誰がいるの?」と問うが、宗太はただ泣きじゃくるばかり。
やがて、少年はひとこと。
「足、痛い……足が、燃えてる……」
その言葉を聞いたとき、白桐山の車軸の下――かつて事故死した若者の話を思い出した者がいた。
それは、昭和二十年代のこと。
曳き出しの直前に、整備中の山の下敷きになり、若衆のひとりが命を落とした。彼の足元には当時、焚き火が焚かれており、服に火が燃え移ったまま動けず……そのまま。
その事故の詳細は、代替わりとともに封じられ、今では語る者もほとんどいなかった。
曳き出しは中止された。
午後、町内の古老たちが集い、山鉾の前に白木の小さな香台を置き、線香を焚いた。
「戻ってくれて、ええんやで……今年はもう、曳かへんさかいな」
誰にともなく語りかけるその声は、震えていた。
夕暮れ、再び曳き手たちが綱を手にすると、白桐山は静かに――軋む音と共に、わずかに前へと転がった。
子どもはもう泣かなかった。
風が通り過ぎ、綿のように白い桐の花が、どこからかひとひら舞い降りてきた。
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