第34話 『山鉾町にて、戻り松の声』

 七月の京都、宵山の夜。


 四条通から細い路地へと分け入ったその先に、「戻り松町」という小さな山鉾町がある。今では地図にも載らぬが、かつては正式な山鉾を出していたという。




 だが、幕末に起きた大火で町の半分が焼け落ち、山鉾の曳き出しも中止されたまま廃れていった。


 それでも古老たちは言う。




「山は、毎年出してやらな、あの人が戻ってくるえ」




 "あの人"――それは、町の“戻り松鉾”を曳いていた若衆頭・神谷惣之助のことだった。




 火事の夜、彼は山鉾の懸装品を守ろうとひとり町へ戻り、焼け落ちる家並みに呑まれて帰らぬ人となった。遺体は見つからなかったが、その年から、町では毎年、奇妙なことが起こるようになった。




 たとえば、山鉾を出せないまま迎えた祭の日――




 ●町家の襖に煤けた手形が現れ


 ●誰もいない夜に「エンヤラヤ」と山鉾を曳く掛け声が響き


 ●保存していた旧懸装品に、焼け焦げたような跡がつく




 そして何より、戻り松町の交差点角――今では使われていない空き家の二階から、毎年、同じ夜にこう囁く声がするのだという。




「……今年も、山は出んかったか」




 その声は、誰も知らぬはずの惣之助の口調だと、かつての町衆だった老婆が証言した。




 ある年、町の若い者たちが「幽霊なんて時代遅れや」と笑い、旧鉾倉を無断で壊してしまったことがあった。


 その夏、町は記録的な大雨に見舞われ、地盤が崩れ、町家が一棟、跡形もなく沈んだ。




 助かった老人は震える声で言ったという。




「鉾は、魂を鎮めるためのものや……わしらが忘れても、惣之助は忘れてへん」




 現在、その町の跡地には、マンションが建っている。だが、祇園祭の宵山の夜になると、エントランスの防犯カメラに写ってはならぬものが映るという。




 浴衣姿の、煤けた男。


 肩で担ぐはずの山鉾の軸を、ひとり空中に担ぎ、夜の町を曳いている――。

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