第36話 『駒形提灯の下にて』

 宵山の夜だった。四条通の喧騒を抜けて、一本裏の細い路地へ足を踏み入れたとたん、空気が急に変わった。蒸し暑かった通りとは打って変わって、しんと冷えた風が肌を撫でた。




 僕はカメラを提げて、人気の少ない鉾町の奥へと進んでいた。駒形提灯の光を撮るためだった。人影はまばらで、提灯の灯りが石畳に柔らかく映り込んでいる。ふと、視線を上げたときだった。




 「……あれ、なんであれだけ……?」




 一つだけ、異様に赤く、まるで燃えているように明るい提灯が目に飛び込んできた。




 他の提灯はまだ点灯前なのに、なぜかそれだけが、まるで火の精にでも憑かれたように、ゆらゆらと揺れていた。




 僕は無意識にカメラを構え、ファインダーを覗き込んだ。




 しかし、そこに映ったものに、思わず息をのむ。




 提灯の灯りが、ぼんやりと人の顔のように歪んで見えるのだ。


 目と口がゆらゆらと動いている。だがレンズを外して裸眼で見ると、ただの提灯だ。




 「……まさか、そんな」




 自分で笑いそうになった。でも、笑えなかった。




 その時、背後で――「ザッ」と風を切る音がした。


 咄嗟に振り返るが、誰もいない。




 路地は静まり返っていた。遠くの笛の音も届かない。人は歩いているのに、足音ひとつ聞こえない――そんな不気味な沈黙。




 「……なんや、これ……」




 声が震えていた。




 提灯の下に、そっと近づいていく。灯りの下、火袋の縁に黒い煤のような跡がついているのが見えた。


 それは、誰かが直接、口を近づけて火を吹き込んだかのような跡だった。




 そのときだ。




 「兄ちゃん、それ以上近づかんほうがええ」




 不意に、背後から年老いた声がした。




 振り返ると、古びた浴衣を着た老人が立っていた。手には団扇を持ち、目元は皺で深く刻まれていた。




 「そこな……十年前に焼けた町屋の跡や。覚えとるわ。あの家は、なあ……火元は結局わからんかった」




 「……火事、だったんですか」




 僕が問い返すと、老人はゆっくり頷いた。




 「おかしな話やけどな。『火消し婆』いうて、火事のたびにあの辺に現れてた婆さんがおってな。誰が呼ぶでもないのに、赤い提灯の下に立っとる。火が出たら、じいっと燃える家を見て笑うんや」




 「笑う……?」




 「声は出さん。でも口元が動いとる。わしは一度だけ見た。こわかったで。そんときは、もう手遅れやったけどな……」




 老人の目が遠くを見つめるように細められる。その横顔に浮かぶ影が、なんとも不気味だった。




 「その婆さん、あの火事の晩も、最後に見かけたんや。赤い提灯の下にな……」




 僕は、無言でシャッターを切った。




 家に帰ってから、その画像を拡大してみた。




 赤く灯る提灯の真下――そこには、白い何かが映っていた。




 それは、人の指だった。


 一本、煤けた指が、まるで炎に触れようとするように、そっと上へ伸びていた。




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