最終章 甘さの先で
ある朝、怜は静かな幸福感とともに目を覚ました。
唇にはまだ、昨夜の名残が微かに残っている。
甘くて、ぬるくて、安心する味。
それだけで、生きていける気がした。
隣では紗月がうつ伏せで眠っていた。
柔らかな背中。ゆるく乱れた髪。
その姿を見るだけで、喉の奥がじわりと熱を帯びた。
「さつき……」
そっと呼ぶと、彼女は眠たげに目を開け、怜を見つめた。
「おはよう、怜くん」
「……おはよう」
それだけで、世界が満たされた。
***
その日、ふたりは家を出なかった。
食事もとらず、テレビもつけず、ただ寄り添っていた。
時間の感覚も曖昧で、部屋の明るささえ意識しなくなっていた。
「……そろそろ、終わりにしたほうがいいのかなって思うときもあるよ」
紗月がぼそりと呟いた。
「え?」
「この関係、ずっと続けてたら、どっちかが壊れちゃいそうだなって……」
怜はゆっくりと頭を横に振る。
「もう壊れてるよ、俺は」
「……そう?」
「うん。でも、それでいいんだ。
だって――壊れた先にしか、俺の居場所はなかったから」
言葉にするたび、怜の中の何かが溶けていった。
「……私もね、壊れてると思う」
紗月の声が、少しだけ震えていた。
「最初はね、試してみたかっただけだったんだよ。
人がどこまで依存するのか。どれくらい、私の味で変わっていくのか。
でも……」
そこで言葉を切ると、彼女は怜の胸に顔をうずめた。
「気づいたら、自分のほうが怜くんの反応に酔ってて。
あげることで満たされて、あげないと不安になって……
もうね、境界が分かんなくなっちゃったの」
***
その晩。
怜は、ベッドの中で彼女の指をそっとくわえた。
唾液は、もう日常すぎて何も特別じゃない。
けれど――それがないと、自分はきっと空っぽになってしまう。
「さつき」
「なに?」
「……ずっとこのままでいよう。壊れたままで。甘さの中で、ふたりだけで」
紗月は一瞬黙ってから、微笑んだ。
「……うん、いいよ」
それは、愛の言葉かもしれなかった。
あるいは、互いにとっての終わりの約束だったのかもしれない。
でも、それでよかった。
世界が壊れても、ふたりの檻が残るなら――
その中で溺れきって、沈んでしまいたい。
***
それからのことは、誰も知らない。
ふたりは、外に出ることもなく、社会と交わることもなくなった。
けれど、部屋の中にはずっと、柔らかく甘い空気が流れていた。
唾液という名の甘い毒に染まりながら、
ふたりは今日も、寄り添っている。
壊れたまま、幸せに。
⸻
ーー 完 ーー
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