番外編 甘さの観察者(さつき視点)

 最初は、ただの興味だった。


 人が壊れる瞬間って、きっと綺麗だと思った。

 日常や倫理に縛られた人間が、自分の中の“快楽”に屈していく過程――

 それを間近で見てみたいと、ずっと思っていた。


 そんな私の前に、怜くんは現れた。


 地味で、真面目で、感情の表現が下手な子。

 でも、目だけが異様にまっすぐだった。

 ああ、この子なら……って、すぐに分かった。


「ねえ、味、見てみる?」


 唾液って、不思議だよね。

 ただの体液なのに、どこか“本質”がにじみ出る。

 あれを与えることで、人の境界がどれだけ曖昧になるか、知りたかった。


 最初はほんの一滴。

 でも、彼の反応は驚くほど素直で、敏感だった。


 舌が震えて、呼吸が乱れて、目が潤む。

 そういう反応を見るたびに、私の中でなにかが満たされていくのを感じた。


 


 ***


 


 あの頃の私は、きっと冷たかった。


 優しく撫でるふりをして、内心では「もっと崩れろ」と願っていた。

 彼の依存は、私にとってただの実験材料だった。

 もっと深く、もっと執着させて、どこまで堕ちるか見てみたいと思ってた。


 だけど……ある日、ふと気づいたの。


 怜くんの“欲しがり方”が、私の中の何かをざわつかせるようになった。


 彼の舌が私の指に触れるたび、

 彼の唇が私の唾液を求めるたび――

 なんだか、逆に“私の方が必要としてしまってる”気がして。


「このままじゃ、私が依存する」


 そう思った瞬間、少し怖くなった。

 でも、もう遅かった。


 怜くんは、完全に私のものになっていた。

 でも――それと同時に、私の心の奥も、彼に握られていた。


 


 ***


 


 “あげる”ことが日課になってから、世界が変わった。


 日々のニュースも、友人とのLINEも、どうでもよくなっていった。

 ただ、彼の目が潤む瞬間だけがリアルで、意味があった。


 その日、怜くんが言った。


「ずっとこのままでいよう。壊れたままで、ふたりだけで」


 壊れている。確かに、ふたりとも。

 でもね、不思議なの。


 この壊れ方が、今まで生きてきたどんな“正しさ”よりも、ずっと心地いいの。


 人って、理性じゃなくて、甘さで支配されるんだね。


 私はそれを教えるつもりだったのに、

 教わったのは、たぶん――私の方だったのかもしれない。


 


 ***


 


 夜。


 怜くんが私の指をくわえながら寝息を立てている。

 私は彼の髪を撫でながら、微笑む。


 もう、どちらが主で、どちらが従かなんて、分からない。


 でも、それでいい。

 この甘さの中で、互いを観察し、支配し合う関係こそが、

 たぶん私たちにとっての“愛”なんだと思う。


 


 この味がある限り、私たちは壊れたまま、幸せでいられる。

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甘い罠 〜気づかない内に堕ちていく〜 朝凪 ひとえ @katuyama1000

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