第6話 檻の中の幸福

 目を覚ましたとき、怜はすでに彼女の腕の中にいた。

 毛布の下で、背中にぴったりと寄り添う温もり。

 柔らかな吐息が、耳のすぐ後ろでゆるやかに降りてくる。


「……おはよう、怜くん」


 囁くような声が、まるで夢の続きのように滑り込んできた。


「……もう少しこのままでいい?」


「いいよ。ずっと、こうしてて」


 答えた怜の声は、ひどく素直だった。

 抵抗も、遠慮も、もうどこにもなかった。


 


 ***


 


 食卓には、トーストとサラダ。

 だけど、怜は手をつけなかった。


「……食べないの?」


「うん。……味、しないから」


「そう」


 紗月は何も責めなかった。

 ただ、自分のマグカップに唇をつけると、怜の方に顔を向けた。


「こっちは、いる?」


 マグの縁に残る唾液を、見せつけるように舐める。

 その仕草に、怜は喉が鳴るのを抑えきれなかった。


「……うん。ほしい」


 まるでごはんをねだる子供のような声だった。

 羞恥よりも、欲望の方が勝っていた。


「じゃあ、口、開けて」


 そう言って、紗月は指に少し唾液を乗せ、怜の舌の上に垂らす。


 甘くて、ぬるくて、落ち着く。

 身体の芯がゆるむ。


 その味があれば、生きていける。

 そんな確信が、もう当たり前のように存在していた。


 


 ***


 


 「怜くんってさ、ほんとに……飼いやすい」


 ソファで肩を寄せて座る夜、紗月が笑いながら言った。


「……飼われてるのかな、俺」


「うん。完全に。だって、自分から檻に入ってきたじゃん」


「そうかも」


 怜は否定しなかった。


 檻は、冷たくも狭くもなかった。

 むしろ、柔らかくて、あたたかくて、安心できる場所だった。


 世の中の喧騒、義務、期待、そういうもの全部から逃げられる唯一の場所。

 唾液の味と、紗月の肌のぬくもりが、すべてを包んでくれる。


 だから――。


「……このままでいいや。壊れたままで、さ」


「ふふ、それが一番楽だよ。

 だって、怜くんが“壊れないように”って頑張ってた頃より、今のほうがずっと可愛いもん」


 そう言って、紗月は怜の唇にキスを落とした。


 とろりとした液体が舌を濡らし、喉をすべり落ちていく。


 快楽なんて言葉じゃ足りない。

 もっと本能的な、深い満足がそこにある。


 もうどこにも行かなくていい。

 どこにも帰らなくていい。


 この檻の中が、いちばん自由だ。


 


 ***


 


 その夜、怜は夢を見た。


 鉄格子のない、柔らかい檻の中。

 誰にも邪魔されず、ただ紗月の唾液を味わいながら、永遠に微睡んでいる自分。


 夢の中の自分は、幸福そうに笑っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る