第5話 溶ける心

 「……ちょうだい。……お願い、唾液……ほしい」


 その言葉は、怜の喉からにじみ出るように漏れた。

 これまでにも「もっと」と言ったことはあった。

 けれどこれは――自分の欲望を、何も隠さずに晒した最初の“懇願”だった。


 紗月は黙ったまま、少し驚いたように怜を見た。

 そして、微笑む。


「へえ……怜くん、自分からお願いできるようになったんだ」


 小さな拍手のように、指をぱちんと鳴らす。

 怜の鼓膜に、その音が不思議なくらい大きく響いた。


「どうしてほしいの? どこに、どのくらい?」


「……どこでもいい。味がほしいんだ。……じゃないと、落ち着かない」


「ふふ、それってもう、“餌”じゃない?」


 その言葉に、怜の背筋がぞわりと震えた。

 どこか侮蔑を含んだ響き。

 けれど、それが不快ではなく――なぜか、心地よく感じられる自分がいた。


「じゃあ、今日は……あげない」


 紗月はあっさり言った。


「……え?」


「さっき欲しいって言ってたけど、まだ“本物”の欲しがり方じゃないと思うの。……だって怜くん、まだ“私”を欲しがってないもん」


「違う……俺は、欲しくて……!」


「ううん、怜くんが欲しいのは“唾液”であって、“紗月”じゃない。……でしょ?」


 その瞬間、怜の中で、何かが壊れた。


 


 ***


 


 それから数分間、紗月は何も言わず、ただスマホをいじっていた。

 怜はソファの端で小さく丸まるように座り、呼吸を整えていた。


 心臓がうるさい。

 手のひらに汗が滲んで止まらない。

 それでも――彼女のそばを離れようとは思わなかった。


「ねぇ、怜くん」


 突然、紗月が近づいてきた。


「ご褒美ってさ、自分で“堕ちてきた人”にしか、あげられないの」


 そして、彼女は自分の指先を舌で濡らし、そのまま怜の口元に持ってきた。


 ……でも、触れない。


「欲しかったら、自分で舐めて。ちゃんと、“私”のことを欲しいって思って」


 その言葉に、怜の理性は崩れた。


 彼女の指に自ら唇を寄せ、舌を這わせる。

 とろり、と唾液が喉に落ちた瞬間、全身がぶるりと震えた。


 甘い。ぬるい。やさしい。

 けれど、それはもう、ただの“ごほうび”ではなかった。


 屈服の証明だった。


「……いい子」


 紗月はそう言って、怜の髪を撫でた。

 優しく、まるで飼い主が犬を撫でるように。


 


 ***


 


 その夜。


 怜はベッドの中で、何度も彼女の名をつぶやいていた。


「さつき……さつき……」


 唇の奥に、あの味が残っている。

 それだけで、身体の中心が熱を持つ。

 彼女がそばにいないことが、呼吸を苦しくさせる。


「……もう、戻れないな」


 その言葉に、不思議な安堵が宿っていた。


 怜の心は、完全に溶け始めていた。

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