第3話 味覚の檻
水の味がしなかった。
冷たいはずのミネラルウォーターが、怜の舌の上でただの液体になっていた。
喉に流し込んでも、満たされる感覚はない。
それどころか、飲むたびに乾いていくような気さえした。
……彼女の味じゃないから。
唾液に慣れきった身体は、もはや“普通”の味を受け付けなくなっていた。
***
「怜くん、そろそろ気づいた?」
いつものように部屋にやって来た紗月は、笑いながらそう言った。
白のルームワンピース姿。薄手の生地が肌のラインに沿って柔らかく揺れている。
「何を?」
「あなた、もう“私の味”以外じゃ、味覚が働かなくなってる」
怜は無言で頷いた。
それはとっくに、気づいていた。
「ねぇ、試してみる? 今日はいつもと少し違う方法であげる」
紗月は指先を舐めながら、ベッドに腰を下ろした。
その動きがどこかゆっくりで、艶めいていた。
何も言わずに、怜は彼女の足元にひざまずいた。
「……口、開けて」
命令でも、優しさでもない。
それは“当たり前”のやり取りだった。
舌を突き出すと、紗月は自分の唇を濡らし、そこから一滴だけ、怜の舌へと流し込んだ。
「ん、……っ」
舌の上に落ちたそれは、どんな飲み物よりも濃く、甘く、温かかった。
全身に染み渡っていくのがわかる。
心拍が上がり、手が震える。
それが快感であることに、もう疑いはなかった。
「やっぱり……怜くんって、可愛い」
紗月が笑う。
その表情には、慈愛と支配が同時に宿っていた。
***
ある日、怜は大学のカフェでサンドイッチを口にした。
いつものメニューだったはずなのに、味が――なかった。
パンのパサつき、レタスの苦み、ハムの塩気。
どれも舌をすり抜けていくばかりで、何ひとつ“感じる”ことができなかった。
「……やっぱ、無理だな」
ひと口残してゴミ箱に捨てた。
もう、普通の食事では満たされない身体になってしまっている。
舌が覚えているのは、紗月の唾液だけ。
あの、ぬるくて、甘くて、どこか“母体の中”を思わせるような、安心する味。
気づけば、ポケットの中のスマホを握りしめていた。
紗月の名前が並ぶトーク履歴を何度も開いては閉じる。
「紗月……、今、欲しい」
彼女が隣にいないと、空気すら薄く感じる。
***
その夜。
「ねぇ、怜くん」
ソファに座る紗月が、テレビを眺めながら言った。
指先を自分の唇に当て、とろりと唾液を集めている。
「もう他の味、全部忘れちゃったんじゃない?」
怜は無言で頷いた。
事実だった。
「私の味だけが、あなたの“現実”なんだよ。……なんか、素敵じゃない?」
紗月の指が、怜の唇に触れる。
ほんのわずかなぬめりが舌に乗っただけで、世界の色が戻るような気がした。
「お願い、もっと……」
「ふふ、焦らないの。……ちゃんとあげるよ、私の全部を」
彼女はそう言って、ゆっくりと怜を抱きしめた。
吐息が耳元に触れる。
「ねぇ、怜くん。あなたが望むなら、唾液だけじゃなくて、私の全部をあげる。
味も、匂いも、声も、温度も……私が“あなたの檻”になってあげる」
その言葉に、怜はなにも返せなかった。
紗月の温度が、やけに心地よかった。
もう何も考えなくていい。
彼女の中に溶けていれば、それでいい。
***
次の日。
怜は夢を見た。
紗月の唾液が、雨のように空から降ってくる夢。
そのひとつひとつを舌で受け止めながら、
「もっとちょうだい」と呟いていた。
目が覚めたとき、口の中が妙に渇いていた。
喉も、心も、全部が――紗月を求めていた。
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