第2話 渇きの夜

 その日、紗月からの連絡はなかった。


 午後三時を過ぎたころから、怜はスマホを無意識に確認するようになっていた。

 ゼミの帰りにいつものように飴を分け合ったきり、あれから何もない。

 いつもなら、夕方には「今日行っていい?」とか「ごほうび準備中」とか、どこかしら挑発めいたメッセージが来るはずなのに――


「……別に、あいつが来ないからって」


 呟いてみたものの、掌がじっとりと汗ばんでいるのを怜は感じていた。


 部屋は静かだった。

 冷蔵庫の音が、やけに耳に障る。

 テレビをつけてみても、バラエティ番組の笑い声がうるさくてすぐに消してしまった。


 紗月がいないだけで、こんなにも空気が薄くなるなんて。


 


 ***


 


 夜の八時を過ぎても、紗月から連絡はなかった。


 食欲はなかったが、習慣のように食パンをかじってみる。

 しかし、味がしない。

 舌に、何も乗ってこない。


 「……あー、そうか」


 ようやく自覚した。


 舌が、彼女の味じゃないと反応しなくなっている。


 怜はパンを流しに放り投げ、水を一気に飲んだ。

 けれど、喉の渇きは一向に収まらない。


 彼女の指先から伝ってくる、あのぬるい雫。

 舌に落ちた瞬間、脳がふわっとほどけていくようなあの感覚。


 それを、身体が欲している。


 いや、正確に言えば、“渇いている”のだ。

 紗月の唾液に、身体が調整されてしまったような感覚。


 ――おかしい、とは思った。

 でも、戻りたくはなかった。


 


 ***


 


 翌朝、扉の前に紗月が立っていた。


「……おはよ、怜くん。顔色、悪いね」


「連絡、……なかったじゃん」


「ちょっとね、意地悪してみたの」


 涼しげな顔で紗月は笑った。

 全てわかっていたというように。


「……」


「そろそろ、自覚した?」


 彼女はゆっくりと近づいてきて、怜の顎を指先で持ち上げた。


「あなたの身体、もう“私の味”じゃないと反応しなくなってる」


「……わかってる」


「喉、渇いてる?」


 怜は答えなかった。


 けれど、その代わりに――口を、そっと開けた。


「ふふ……えらいね。ほら、ごほうび」


 ぺろり、と舌を這わせた指が、怜の舌に触れる。

 ぬるくて、甘くて、くすぐったい。

 それだけで、頭の奥がじんわりと温かくなっていく。


 そしてそのまま、彼女は怜の膝の上に座った。


「欲しかったんでしょ? ずっと、ずっと」


「……ああ」


「可愛いね、怜くん。……まるで、飼い主の顔を見た犬みたい」


 そう言って、彼女は頭を撫でてくる。


 羞恥も、屈辱も、どこか遠くにあるように感じた。

 今はただ、紗月の中にいることだけが現実だった。


 


 ***


 


 それから数日、怜は完全に“それ”に慣れてしまった。


 食事は彼女の口移しの飴やガムで十分だった。

 水分も、紗月が与えてくれる“味”があれば満たされる。


 感覚が、変わっていた。

 味覚も、嗅覚も、思考さえも――紗月基準に再構築されていく。


 言葉にすれば、たぶん「依存」だった。

 でも、それは自分が選んだ“最適な形”だった。


 彼女の唾液に包まれているときだけ、安心できる。

 それ以外の時間は、薄くて寒い。


 “正常”だった頃の記憶が、かすんでいく。


 でも、構わなかった。


 


 ***


 


 夜。


「ねぇ、怜くん。もし、私が明日死んだらどうする?」


 突然の言葉に、怜はまばたきを止めた。


「やめろよ、そういうの……」


「ううん。仮定の話。でも、ちゃんと答えて」


 紗月は、少しだけ微笑んでいた。

 それが、怖かった。


「……たぶん、死ぬ」


「うん。そうだと思った」


 彼女はそれを、嬉しそうに受け止めた。


「大丈夫だよ。私は、あなたより先に死なない。

 だって、あなたを最後まで“変えて”あげたいから」


「……もう、十分変わったよ」


「まだまだ。これからもっと、私の色に染めていくの」


 優しい声だった。

 けれど、その優しさの中に――決して逃れられない意思があった。


 


 その夜、怜は夢を見た。


 舌が舐め取られ、唾液に染め上げられ、心が透明になっていく夢。

 それは、どこか心地よかった。

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