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 その夜、俺も三条も寝付けなかった。言うまでもない。望月彩音のことだ。

 泣きはらした彼女を目撃し、なにもなかったと結論付けられるほど愚鈍ではない。彼女はあの夜、屋上で誰かと密会していたに違いないのだ。


 しんとした暗がりの部屋で、三条が声を落として言う。

「片山がトイレに行ってる間さ、佐川先生と藤代が来たけど、エレベーターは動かなかったぜ」


 俺がエレベーターホールを離れた時間はせいぜい一分あまり。その間にエレベーターで屋上に行って戻って来ることは不可能だ。信じてよいだろう。


「そっか」

「なんだよ、薄い反応だな。そんなに彩音のことが気になるなら、直接確認すればいいじゃん」

 確認を取るなど、自分の好意を白状するようなものだ。俺に弱みを晒す趣味はない。


 ところで、三条は隠しているつもりだろうが、彼も望月を憎からず思っているようだ。でなければ、疎遠になった幼馴染の密会疑惑なんて興味ないはず。

 だから、あえて三条にこの件を話すのだ。

 情報を引き出すために三条を利用する。俺はあくまでも、傍観者の位置から真実を見極める。


「なんなら俺が彩音に聞いても……いや、教えてくれるわけないか」

「そうだよ。アイドルは恋愛禁止なんだから」

「うーん、なのかなぁ」

 望月が所属するグループは、恋愛禁止を公言している。それが売りだったのだ。もし不義理を働いたとして、それを隠そうとするはず。真面目な望月彩音なら。


 三条は続ける。

「いやさ、彩音って今は活動休止中だろ確か。だから修学旅行に来れたってのもあると思うし、ほら、活動してない間は恋愛オーケーだったりしないか?」


 やけに軽い口ぶりだったが、内容は無視できなかった。

 三条の言う通り、望月の所属するグループはこの春から活動を休止している。公式は口を閉ざしているが、理由は望月だろう。彼女が自室に仕掛けられていた盗撮用の小型カメラを発見し、その直後に活動が止まったことを、俺は知っている。


 だとしても、休止ということは再開する前提だ。その理屈は通らない。

「じゃあ片山はなんでだと思う」

 拗ねたような声できいてくる。認めたくないが、彼氏と会っていた説をくつがえすす材料はない。

「……弱みをにぎられている、とか」

 三条は鼻で笑った。

「それはなくね? 彩音ってああ見えて、やられたらやり返すタイプなんだよ。昔、俺の顔にアイスぶつけたやつ、泣くまで追いかけてたし」


 今は疎遠なくせに、幼馴染ってだけで、全部わかったふうに振る舞うな。黙って布団をかぶった。

 彼女が誰となにをしていたのか。それを知るまで、俺の心は休まらない。


🕘


 修学旅行三日目は、奈良市内を貸切バスで巡る。帰りの新幹線の時間が決まっており、今日に限っては自由行動はない。寺も仏像も興味のない俺には、つまらない一日になるところだったが、幸か不幸か望月の一件で退屈は吹き飛んでしまった。


 興福寺に向かうバスの中で、俺は先頭列から後方を見やる。

 最後列。比較的顔立ちの整ったやつらが集まるエリアの中心に、望月はいた。

 まるで王の玉座だ。お誕生日席のように最奥からバス中を見渡せるし、左右には取り巻きが控えている。こういう自由席のときこそ、クラスのヒエラルキーは赤裸々に姿を現す。ヒエラルキーの低い者は、彼女に近づくことさえ叶わないのだ。


「この辺、ライブとかで来たことあるでしょ?」取り巻きの一人が言う。

「えー、わかんないなあ。百年会館の周りしか」

 望月はぺかっと花が咲いたように笑った。無垢で、無防備で、ドラマの一場面を演じるようだった。


 そこから二列前。藤代颯太は窓際のシートにいる。度々監視の目を光らせているが、未だ望月にちょっかいを出す素振りはない。だが油断は禁物だ。一瞬の接触が、彼女との関係を浮き彫りにするに違いない。俺はその一瞬を見逃すまいと一層警戒心を高めた。


 バスを下りると、俺たちはアリのように一列で境内を進んだ。頭上に木陰はほとんどない。キャップを目深にかぶり、じわりと滲む汗をこらえながら、俺は望月の背を目で追った。

 東金堂に入ってようやく一息つくことができた。すーっと木材と線香の香りが鼻をくすぐる。見上げれば、擦れたような金色の像が鎮座している。光背の部分だけ発色が美しく、そのあべこべさがおかしく映った。

 遠くで佐川先生が言う。「真ん中が薬師如来、右が日光菩薩、左が月光菩薩だ」

 名前だけ言われても、ありがたみは湧いてこない。けれど、いかにも偉そうな人が脇侍わきじを携えた姿は、望月の影が重なるような気がした。


「片山、ちょっと」

 三条がポニーテールの女子を引き連れて現れた。見下ろしてくる双眸はウズウズと好奇心で満ちている。

「……なに」

宇佐美うさみが知ってるんだってさ」

 なにを、とはきかなかった。十中八九、望月のことだ。


 宇佐美せりの印象は、そこの知れない女だ。普段は仲の良い女子グループと群れていて、成績は普通、所属するソフトテニス部でも目立たず、総じて何に本気なのか読めない。

 そんな彼女は、なぜか俺たち男子の班に一人だけ加わっている。片山・三条・藤代・榊原。そして宇佐美。男ばかりの中に、たった一人。


「大きな声じゃ話せないし」と宇佐美は俺たちを仏像を見る集団から引き離す。周囲の視線を気にするとやおらに、

「彩音の彼氏が知りたいんでしょ、教えてあげる」

 やはり付き合っている男いるのか。たらっと汗が脇を伝う。

「……ほ、本人から聞いたわけ?」

 俺は恐る恐るきく。緊張のせいか、喉が詰まって声が裏返ってしまった。

「ううん。でも『彼氏か?』って聞かれた彩音がまんざらそうだったから、多分間違いない」

 なんだそりゃ。確信ぶった割に、憶測と思い込みばかり。俺は落胆の色を隠しつつ

「それで、誰なの」と先を促した。

「藤代だよ、藤代」


 宇佐美は誇らしげに語りだした。

 彼女の話によると、昨夜七時からの日記を書く時間、望月と同室の取り巻きその一がSNS上でライブ配信を行っていた。宇佐美はルームメイトが通話しているところを横から見ていたらしい。


 配信開始から十五分ほど経ったころ、望月のスマホが鳴った。画面を確認すると、彼女はさっと立ち上がり、無言で部屋を出ていった。

 その去り際、取り巻きが「彼氏のとこか〜?」と茶化すと、望月は「うーん」と曖昧に笑って、否定も肯定もしなかったという。


「で、そのあと?」

 三条が前のめりになる。彼は最後まで話を聞いて連れてきたわけではないようだ。

「知らないよ。私、そのへんで見るのやめたし」

 肩をすくめる宇佐美。三条はムッと顔をしかめた。

「じゃあその放送、見せてくれよ」

「え、無理だよ」宇佐美は、ないない、と顔の前で手を大げさに扇いで見せる。

「私、SNSとかやらない主義なんだよね。チャットさえできれば十分っていうか、写真を見せびらかす意味がわかんないし」

 主張はするが証拠は見せられない、ときた。信じるには論拠が弱い。


 俺は冷ややかに彼女に向き直る。

「……なんで藤代なんだよ」

 俺が口を挟むと、宇佐美はふいっと横を向いた。

「他にいる? 藤代以外に、彩音を呼び出せるような男子」

 あまりに乱暴な結論だった。だが一方で、否定しきれない不安も、喉の奥に引っかかっていた。


 望月のまわりにいる男子はどいつもこいつも、ブルーライトに群がる虫のように、うるさく周囲を飛び回るだけだ。だが藤代は彼らに比べて積極的。狙った女子には脇目も振らずにアタックする。望月を呼び出せるような男子は藤代だけ、という部分には同意する。

 それに、実際問題、望月が屋上にいたと見られる時間、藤代は階段から抜け出している。可能性でいえば最も高いだろう。


 俺は試しに、藤代が望月と密会する過程を、脳内でシミュレーションしてみた。

 午後七時十五分、藤代は望月にメッセージを送る。「今から屋上で会おうぜ」こんな感じの文言だろうか。すぐに望月はエレベーターに乗って屋上へ向かう。

 数分を置き、藤代は部屋を出る。ちょうどそのとき、三条とすれ違う。

 藤代は四階から屋上階までを階段で駆け上がる。五階には佐川先生がいるが、この時点では気づかれない。

 藤代が屋上に到着、蜜月を重ねる。

 そして、来た道を引き返す。階段を駆け下りて四階へ。ここで佐川先生に見つかり、エレベーターホールに連行される。最後に望月がエレベーターで三階に帰る。

 こんなところだろうか。


 宇佐美は得意顔で続ける。

「男子は知らないと思うけど、彩音ってかなり遊んでるのよ。カバンにゴムが入ってるのを見たって噂もあるんだから」

 すんと宇佐美への信頼を失うとともに、段々とこの女の魂胆がわかってきた。

 こいつはただ、望月を貶めたいのだ。仲良くもない、けれど遠くからでもキラキラ輝いて、人気者な彼女を。そういう醜い嫉妬心が、ニヤケ顔のシワのひとつひとつから飛沫を上げて流れ出るのを肌で感じた。

「そうなんだ、知らなかったよ」

 素知らぬ顔でそう返すと、俺は彼女から一歩、距離を取った。三条はなにか言いたそうだったが、この程度の女に付き合ってやる義理もない。


 宇佐美の背中を見送った直後、三条が眉をひそめて詰め寄った。

「まさか信じてないよな」

 俺は小さくかぶりを振った。三条の顔からふっと緊張が抜ける。

「だよな。結構いるんだよ、ああいうさ。彩音が目立つからって、勝手に悪く言うやつ。根も葉もないことで」

 三条は鼻を鳴らした。どこか苦い記憶でもあるのだろう。

 普段ならその訳知り顔に苛立ちを覚えるところだが、今だけはちがった。自分と同じように、望月を悪く言う輩に憤りを感じていたのだと思うと、親近感のようなものが胸に灯った。


「でもどうする? こんなこと言いたくないけど、相手が藤代じゃないって否定できないだろ」

 三条は不安そうに俺を見た。信じたいのに、心のどこかで揺れている。そんな感情が伝わってきた。

「……望月は、藤代と付き合ってない、と思う」ぼそっと言う。

「なんでそう言えるんだよ」


 生徒たちの列が動き出した。俺と三条は列の後方を肩を並べて歩く。

 国宝館は駐車場をはさんで向かいにある。寺の佇まいに不似合いな駐車場のアスファルトは、そこだけ午前のカッと照る太陽を浴びて、熱気を放っていた。


「藤代はスマホを持ってきてない」

 藤代颯太はチャラチャラした見た目に反して、お行儀よく修学旅行のルールを守った。

「じゃあ、スマホを借りたとか? 同室のやつとかに」三条が即座に返す。

 藤代の同室の生徒といえば、榊原だ。しかし、彼から借りることはできなかったろう。

「……榊原はあのとき、トイレで電話してた。トイレットペーパーを取りに行った時」

「あ、そうなのか」

「望月が連絡を受けた七時十五分の時点で、榊原のスマホは手元にあった。藤代が使えるタイミングはない」

 俺たちは七時十分にホールに出た。榊原がトイレに向かうところを見てないということは、俺たちより先に行っていたことになる。望月が連絡を受け取ったのが七時十五分ごろだったというから、藤代が榊原のスマホを借りる仮説は成り立たない。


 三条はふーん、と唇を尖らせる。

「じゃあ、他のやつ。別の班のやつのスマホでも借りたんじゃね?」

「ないよ」俺は言い切った。

 俺と三条が部屋を出た時、佐川先生は監視の目を光らせていた。問題児の藤代が他の部屋に行こうとすれば、真っ先に佐川先生が捕まえていただろう。

「佐川先生がいたか。じゃあ、榊原がトイレに行けたのはどうして」

「『用を足す』って言えば疑われない。でも、藤代だったら疑われる。日頃の行いの悪いから」


 淡々と藤代説の反証を語るにつれ、三条の口端がほころんでいくことに気づいた。

 説明し終えたころには「やっぱりな、そんな気がしてたんだよ」と、どこか照れ隠しのような笑いを漏らす。その笑みは愛想ではなく、心を許したような安心感が含まれていた。

 そんなに簡単に人を信じて、こいつは損をしないだろうか。


 俺は顔を伏せて、次に何をすべきかを考えた。

 藤代は密会相手ではない、というのは見聞きした情報を当てはめただけで、憶測の域を出ない。

 次に必要になのは、もっと具体的で確実な、証拠だった。

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