密行

Sora Jinnai

🕖


 近鉄奈良駅のほど近く、小さなホテルが修学旅行二日目の終着地だった。京都では、梅雨のしめりけを陽光が立ち上がらせてひどいものだったが、ここ奈良はまだましだ。


 四階の窓を開ければ、それなりにすずしい風が入る。夜は明るいが、東京みたいに下卑た喧騒がないだけずっと静かだ。景色も悪くない。理想とまでは言わないが、東京のごみ溜めを思い出さなくて済むだけ、ツインルームでも我慢してやろうという気にはなる。


 生徒たちは部屋に押し込められ、一日の日記を書かされている。俺はとっくに書き終えていて、今は風呂の時間が来るのを待っていた。


「片山、今何時?」


 肩越しに振り向くと、三条大翔さんじょうひろとがベッドに寝転んで頭だけこちらに向けている。中一からずっと同じクラスにいたが、今の今まで話した記憶はない。にもかかわらず、班が一緒になったというだけで、この馴れ馴れしさだ。人の距離感というものが欠落しているとしか思えない。


 戸惑ったが、ポケットからスマホを取り出して答える。「七時十分」

「えー! あと二十分もこうしていないといけないのかよ」ひっくり返ったカメのようにじたばたしている。話したことはなくとも、教室の隅で観察するだけで充分だった。三条とは、そういう恥知らずな男なのだ。


「どうでもいいのにさ。黄檗宗おうばくしゅうとか、開梆かいぱんとか」

 そう言って、今日巡った萬福寺まんぷくじのパンフレットを宙に放った。京都駅から奈良線一本で行けて、観光客も少ない穴場。そういう建前で、俺が提案した行き先だった。


 三条の言い分には同意する。寺そのものに興味があったわけじゃない。俺が萬福寺を選んだのは、望月彩音もちづきあやねがそこに行きたいと話していたのを耳にしたから。それだけだ。


 望月彩音。芸名は春宮はるみや彩音。大人顔負けのスタイルに無垢なキャラクター、グループ最年少でセンターを張るアイドルで、学校では「真面目で明るい子」として優等生扱いされている。テストは壊滅的でも、彼女の真剣さがみんなに理解されているのだ。


 俺は彼女のデビュー時から目をつけていた。でも、クラスでは一度も話しかけたことがないし、知ってるそぶりも見せない。そんなものは、自分の弱みを晒すだけだからだ。

 ちなみに望月と三条は同じ幼稚園に通っていた、つまるところ幼馴染だ。今は疎遠だと聞いているが、子どもっぽい三条なら距離を取られて当然だろう。


「片山、ジュース買いに行こうぜ」

 三条はボディバッグを手に立ち上がる。食い下がられても面倒だと思い、俺は三条の後に続いた。


 ホテルの廊下は凹型に伸びていて、端に階段、中央にエレベーターがある。俺たちの部屋は、そのエレベーターホールの向かいにあった。


 扉を開けた瞬間、エレベーター脇のソファに誰かが腰掛けているのが見えた。佐川さがわ先生だ。スマホから顔を上げたその目が、すぐに眉間にしわを寄せる。

「こら、何出てきてんだ」

 ドスの利いた声が廊下に響いた。元警官という経歴に裏打ちされた、柄の悪い言い方だ。それでいて授業は妙に丁寧で、生徒には(あの望月からも)人気があるらしい。俺は好きじゃない。彼の「ギャップ」とやらが評価されているらしいが、プラスとマイナスを足してゼロになったような人間をどうして好きになれる。


「いや、日記書き終わって暇だなって」

 三条は慌てて取り繕った。佐川先生に言い訳は通じない、生徒の考えなどたいてい見透かしてくる。三条の場合も例外ではなく、佐川先生は呆れ顔を浮かべた。


「班行動は面白かったか」佐川先生が聞く。俺たちは黙って頷いた。

「そうか。修学旅行はどこも同じような場所を巡るから、お前らみたいなのは珍しい。萬福寺なんて俺も行ったことない」

 先生は「もう行くから夜中に出歩くんじゃないぞ」とだけ言い残し、東の廊下へと消えていった。


 先生の背中が見えなくなった途端、

「あぶねえ。じゃあ行こうぜ」

 三条はまったく懲りた様子もなく言う。さすがに俺も呆れて、三条ひとりで行かせることにした。


 自動販売機は六階にあるのだが、その下の五階で教師たちが泊まっている。運が悪いと、いや確実に見つかってしかられるだろう。ちなみに当然というべきか、俺たちのいる四階が男子、三階が女子という具合に、フロアは性別で分けられている。


 三条を見送り、ソファに座り込んだ。ふとももとふくらはぎに張りついていた疲労が、じわじわとはがれていく感覚。しばらく目を閉じて、今日一日の出来事を思い返した。


 望月彩音の班が萬福寺に来ないと知ったのは、現地に着いてからだった。伏見稲荷に予定変更したらしいが、そんなものは俺が班にいたら絶対に却下していた。彼女は二年前、伏見稲荷を訪ねる朝のニュースに出演している。ただのクラスメイトじゃ知らないのも無理ないが、彼女の望みを曲げるとはどういうことだ。


 ゴウン、と背後で音が唸った。エレベーターだ。表示板に「3」の数字が灯り、電車のドアのように半分だけ中が見える竪穴の暗がりをケーブルは滑る。静まり返った廊下に、駆動音は妙に大きく響いた。


 ぱっと明るくなってエレベーターは四階を通過する。俺は反射的に、意味もなく眺めていた。

 まさか、箱の中に望月彩音が乗っているとは思わずに。


 思わずソファから跳ね起きた。見間違いかとも思われたが、あれは間違いなく望月彩音だと確信する。誰にも見せない、憂いに満ちた彼女の表情が網膜に焼き付いた。

 なぜ、こんな時間に。どこへ行くつもりだ。表示板に釘づけになる。6、7、8、R……エレベーターは屋上階で止まった。


 数秒して再び動き出し、今度は下りてくる。彼女に気づかれるのを恐れ、ソファに座り直して横目ですれ違うのを待った。

 だが、箱の中に彼女の姿は見えなかった。

 エレベーターはそのまま一階に止まった。


 屋上に、彼女はいる。そう思った瞬間、脳裏に奇妙な想像が浮かんだ。


 誰かと密会しているのではないか。


 まさかそんな。そうであってほしくないという気持ちが、逆に不安を強くしていく。根拠もないのに、なぜか望月が男の胸に抱かれる姿がイメージできた。

 親指の爪をカクカクと噛む。不安になるとこれをやるのだが、人前ではみっともないので我慢するようにしている。だからゆっくり近づいてくる足音を耳して、すぐに指を口から離した。

「へっへっへっ、セーフ!」

 三条だ。ボディバッグを抱えたまま、当然のようにとなりに座る。

「なに買ったと思う?」

 もったいぶって言う。俺はそれどころじゃない。

「コーラとか」

「ブブー! 残念。正解はエナドリでしたー」と大して冷えてもなさそうな青と銀色の缶を取り出した。


 ムカつく。だが、この修学旅行で三条と話せるのは思わぬラッキーかも知れない。

 せき払いして、切り出す。

「望月ってさ、彼氏とかいる?」

「え、彩音? なんで?」

 “彩音”。その呼び方に「俺のほうが望月のことを知っているぞ」とでもいうような意図が感じられ、苛立ちが走る。


 俺はエレベーターの件を簡潔に伝えた。

「彼氏か、どうだろうな。彩音ぐらいになるとすぐにうわさが立つだろうし、聞かないってことはいないんじゃないか」

「そうか」

 にやけそうになるのを、歯を食いしばってこらえる。

「ああ。でも、さっき藤代ふじしろとすれ違ったぜ。会うとしたらあいつかな」

 俺のにやけはすぐに引っ込んだ。

「いつの間に。それはどこで」

「四階の階段の前。ちょうど藤代がドアを開けたタイミングだったぜ。あいつの部屋、階段の近くだから気づかなかったんじゃないか」


 藤代颯太そうた眉目秀麗びもくしゅうれい、成績も悪くない。変なところがお利口さんな奴で、クラスで唯一「修学旅行にスマホを持ってきてはいけない」言いつけを守っている。おかげで昨日の班行動では、手持ち無沙汰だと嘆いていた。

 けれどかわいそうなどとは思わない。中身は腐ったようなやつで、体目当てで何人も手を出し、トラブルを起こしている。教師どもにマークされているのは有名な話だ。


 弱みをにぎられたりなんかして――藤代ならやりかねない。セーラー服をひんむかれた望月が目に浮かぶ。気づいたら、爪を口元に持っていっていた。

 いや、まさかそんなはずないだろう。さすがに妄想が先走りすぎた。爪を噛みそうになった指をにぎりしめる。


 そこへ、突然エナジードリンクの缶が吹いた。俺のズボンにも思いきりとびちる。三条はあわてて缶をくわえ、あふれ出す液体をなんとか止めようとするが、半分以上はぼたぼたとリノリウムの床に垂れてしまった。

「なにしてんだよ」

 三条はポケットティッシュを取り出したが、到底足りない。

「悪い、トイレットペーパー取ってきて」

 俺をパシリに使うのか、とムッとしたが、頭を冷やすにはちょうどいい。俺は立ち上がった。


 トイレは西の廊下を突き当たりまで行ったところにある。小便器と個室がひとつずつだけの簡素なつくりだ。

 中に入ると、鼻につく酸っぱい臭いと、誰かの抑えた話し声。個室は使われていた。

 さっきまでの妄想から気を逸らしたかったのもあって、俺は気にせず声をかけた。


「ごめん、紙、こっちに投げてくれない」

 声はピクリと反応し、わずかに小さくなる。

「は、はい……その声、片山くん?」

 誰かと思えば榊原智徳さかきばらとものりだ。クラスでも特に目立たない、いかにも“陰キャ”という見た目のメガネ男子。やけに滑舌のいい声でわかる。

 榊原は同じ班の一員で、問題児である藤代と同室に押し込められている。たまらず逃げ出してきたといったところだろう。


「ちょっと待ってて、すぐ渡すから。あ、いや、こっちの話」

 電話でもしてるのか、俺宛じゃない言葉が混じる。

「いち、に、はいっ」

 合図とともに、白いトイレットペーパーのロールがくるくると宙を舞う。

「ありがと」

 紙を受け取ると、俺はそのままトイレを出た。いつも暗い榊原が妙にあわただしいのが気になった。


 ホールに戻ると、藤代と三条が佐川先生の前に正座させられていた。言い逃れでもしたのか、先生の顔は真っ赤で、ふたりとも神妙な面持ちをしている。


 全く非がないし堂々としていればよいのだが、あえて三条のそばにしゃがみ、こぼれたエナドリをせっせと拭った。手を動かしながら藤代を盗み見る。

 ゆるくウェーブした前髪が片目にかかり、耳にはいくつもピアスの痕。軽薄な風貌に、軽薄な中身がにじんでいた。

 こんな奴が望月の相手だったら。冗談じゃない。想像するだけで、胃のあたりが嫌なふうにぞわぞわする。


 その時、再びエレベーターが動き出した。一階からほどなく俺の眼前を通り抜ける。またしても乗っている人影はなかった。


 また、だ。さっきと同じ。

 なぜか胸がざわついた。エレベーターは最上階まで行くと、とんぼ返りで下りて戻って来る。

 「夜景でも見に行ったんだ」

 自分でつぶやいて、自分でそれを否定したくなる。

 密会なんてしていない。彼氏もいない。ただの偶然。偶然に決まってる。


 すれ違いざま、エレベーターの奥に見えた望月彩音は、目を真っ赤に泣きはらしていた。一瞬だけだが、確かに。俺は動揺を隠せず、隣の三条も言葉はなく、固まっている。


 望月は、俺の知らない“なにか”を抱えている。そう確信せざるを得なかった。

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