第15話紅狐の裏切り

 ◇◇◇ 

 俺たちが「赤い花の村」を後にして、次の町へ向かっていたときのことだ。

 車の窓から見えるのは、どこまでも続く田園風景。エレオノーラ様は助手席で書類をめくりながら、時折ふっと微笑んでいる。

 村の子どもたちからもらった花冠を、まだ大事そうに車内に飾っているのが、なんともらしい。

 そんな穏やかな時間をぶち壊したのは、アリスだった。

「お嬢様、ご報告がございます」

 ――どこからともなく現れるの、やめてほしい。心臓に悪いっての。

 「なにかしら、アリス?」

「……紅狐――カミーユ様の行動に、不審な点がございます。念のため、監視を強化いたしました」

 エレオノーラ様の指がピタリと止まる。

「続けて」

 アリスは淡々と、しかし明確に言った。

「カミーユ様は、ここ数日、アロガンテ公爵家に不利な証拠をいくつも仕込んでいます。人身売買、違法薬物取引、その他諸々……いずれも、実際には存在しない“証拠”です」

「……なるほど」

 エレオノーラ様の瞳が、紫水晶のように冷たく光った。

 「アリス、確証は?」

「ございます。現場を押さえました」

「……そう」

 エレオノーラ様は、しばし沈黙した。

 俺は、思わず口を挟む。

「カミーユが、俺たちを裏切ったってことですか?」

「“裏切り”というより、“脅されている”のだと思います」

 アリスは一歩前に出て、声を落とした。

「カミーユ様の孤児仲間たちが、何者かに拉致された形跡が。おそらく、グリムハルト侯爵家の手の者かと」

「……やっぱり、あの家か」

 エレオノーラ様は、深く息を吐いた。

 カミーユ――紅狐。元義賊にして、今はエレオノーラ様の密偵。

 貧民街の孤児たちのために盗みを働き、エレオノーラ様に捕まってからは、その行動力と信念に心酔していたはずの男だ。

 ……そのカミーユが、俺たちを――いや、エレオノーラ様を裏切るなんて。

 「アリス、孤児たちの居場所は?」

「ヴィヴィアンとクロエがすでに救出に向かっています」

「さすがだな、うちの影メイド部隊」

 俺は思わず感心してしまった。

「……で、エレオノーラ様、どうします?」

「決まってるでしょう。カミーユを止めるわ」

 ◇◇◇

 その日の夜。

 俺たちは、カミーユが密かに出入りしているという廃工場跡を訪れた。

 例によってアリスの用意した黒装束で、俺もエレオノーラ様も全身を覆っている。

 エレオノーラ様は、いつもより口数が少ない。

「……アハト」

「はい」

「もし、カミーユが本当に裏切っていたら、どうする?」

「……エレオノーラ様が許すなら、俺も許しますよ」

「ふふ、優しいのね」

「執事ですから」

 ――いや、実際は、怒りで胃がキリキリしてる。俺はカミーユのこと、結構好きだったんだ。

 でも、エレオノーラ様の前では、弱音も本音も見せられない。

 廃工場の奥、薄暗い倉庫の中。

 カミーユが、誰もいないはずの闇に向かって、独りごとのように呟いていた。

「……これでいいのよ。あんたたちさえ無事なら、アタシはどうなったって……」

 その声は、いつものオネエ口調じゃなかった。

 俺とエレオノーラ様は、物陰からその姿を見守った。

 カミーユは、手に一枚の書類を持っている。

「アタシがアロガンテ公爵家に仕込んだ証拠は、これで全部よ。……あとは、あんたたちが解放されれば、それで……」

 その背後から、黒ずくめの男が現れる。

「ご苦労だったな、紅狐。お前の役目は終わりだ」

「……子どもたちは?」

「解放してやるさ。約束は守る」

 男は、カミーユの手から書類を奪い取ると、闇の中へ消えた。

 エレオノーラ様は、静かに歩み出た。

「……カミーユ」

 カミーユは、ビクリと肩を震わせた。

「……エレオノーラ様」

「全部、聞かせてもらったわ」

「……アタシ、裏切ったのよ」

「そうね。でも、理由があるのでしょう?」

 カミーユは、唇を噛みしめていた。

 そこに、アリスから通信が入る。

「お嬢様、孤児たちの救出、完了しました」

「ありがとう、アリス」

 エレオノーラ様は、カミーユの肩に手を置いた。

「もう、あなたが犠牲になる必要はないわ」

「……本当に?」

「ええ。あなたの大切な子どもたちは、もう安全な場所にいる。だから――あなたも、もう自分を責めなくていいのよ」

 カミーユは、しばらく黙っていたが、やがて崩れるようにその場に膝をついた。

「……ごめんなさい、ごめんなさい……アタシ、どうすれば……」

「泣いてもいいのよ」

 エレオノーラ様は、優しく微笑んだ。

 ◇◇◇

 数日後。

 俺たちは、アロガンテ公爵家の王都邸に戻っていた。

 グリムハルト侯爵家の陰謀を暴くため、カミーユは自ら進んで“囮”になることを申し出た。

「アタシが今まで仕込んだ証拠、それを逆に利用してやるわ。グリムハルトの連中が尻尾を出すように、うまく誘導してみせる」

 アリスたち影メイド部隊も、全力でサポートに回る。

 ヴィヴィアンは、孤児たちの保護に奔走し、クロエは情報収集に動いた。

 俺は、エレオノーラ様の側で、ただただ無力感に苛まれていた。

「……俺、執事のくせに、何もできませんでした」

「アハト、あなたがいてくれるだけで、私は十分よ」

 エレオノーラ様は、そう言って微笑むけれど――

 俺は、自分の無力さに、心底腹が立った。

 ◇◇◇

 カミーユの作戦は、こうだ。

 グリムハルト侯爵家が用意した「偽の証拠」を、逆に彼らの屋敷や金庫、書庫に“紛失物”として仕込む。

 アロガンテ公爵家に濡れ衣を着せるつもりの証拠を、すべてグリムハルト侯爵家の所持品として官憲に押収させる。

「アタシ、義賊稼業の頃からこういうの得意なのよ。悪党の懐に証拠を投げ込むなんて、お手のものだわ」

 カミーユの動きは鮮やかだった。

 影メイドたちの協力で、グリムハルト侯爵家の屋敷のあちこちに、薬物や人身売買の書類、収支記録、偽造証拠を“これでもか”というほど仕込んでいく。

 俺は、久しぶりにカミーユの本気の「仕事」を横で見て、正直ゾクッとした。

「……やっぱり、カミーユは只者じゃないな」

「アタシ、昔は悪党だったのよ。今はエレオノーラ様の忠実な下僕だけどね」

 ◇◇◇

 同時進行で、アリスたちが今までの事件の裏を洗い直す。

 花屋の看板娘シェーヌ嬢の事件――あれは、グリムハルト侯爵家が薬草の栽培技術を狙い、手下の男爵が「妾に欲しい」と早合点して暴走した結果だった。

 老薬師マロニエ婆さんを誘拐し、違法薬物を作らせていたのも、グリムハルト侯爵家の差し金。

 農民一揆の村で作らされていた赤い花――あれも、違法薬物の原料となる芥子だった。

 そして、元々の紅狐カミーユの義賊事件も、グリムハルト侯爵家が黒幕で、政敵の家を襲わせ、そこに弱みとなる悪事の証拠を仕込ませていたのだ。

 「全部、グリムハルト侯爵家が糸を引いていたってことか……」

 俺は、思わず天を仰いだ。

「……エレオノーラ様、どうします?」

「決まっているわ。彼らの悪事を、白日のもとに晒すのよ」

 ◇◇◇

 王都では、アロガンテ公爵家に関するスキャンダルが次々と噂になり始めていた。

 人身売買、違法薬物、賄賂――根も葉もない話ばかりだが、貴族社会は噂に弱い。

 エレオノーラ様は、堂々と正面から反論した。

「わたくしの家が、そんな下劣なことに手を染める理由がどこにあるの? 証拠があるなら、どうぞお持ちになって」

 その自信満々な態度に、周囲も次第に「本当にそんなことが?」と疑い始める。

 そして、ついに“その日”がやってきた。

 王都の官憲が、グリムハルト侯爵家に家宅捜索に入る。

 見つかったのは、山のような違法薬物と、詳細な取引記録、人身売買の名簿――

 カミーユの仕込みが、完璧に決まった瞬間だった。

 ◇◇◇

 その夜。

 エレオノーラ様の私室で、俺とカミーユ、アリスたちが集まっていた。

「……これで、全部終わったのか?」

 カミーユは、どこか疲れた顔で呟いた。

「ええ。あなたのおかげよ、カミーユ」

 エレオノーラ様は、柔らかく微笑んだ。

 「アタシ、もう……エレオノーラ様に顔向けできないと思ってたの」

「バカね。あなたがどれだけ苦しんでいたか、わたくしは知っているわ」

「……ありがとう」

 カミーユは、涙をこぼしながら、エレオノーラ様に深く頭を下げた。

 俺は、その光景を見て、胸の奥がじんわりと熱くなった。

「……これで、アロガンテ公爵家も、エレオノーラ様も、無事に世直し旅を続けられますね」

「ええ。まだまだ、やるべきことはたくさんあるわ」

 エレオノーラ様は、きっぱりと言い切った。

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