幽谷しずく編:あの夏と、この夢の国と、あなたと

「んふふ……楽しいね、きょう」


わたしの声は、たぶん、ぜんぶ顔に出てたと思う。

自分でも分かるくらい、笑いっぱなしで、頬がゆるんで、目尻がくしゃってなってて――

それでも、彼はずっと、やさしい顔で見つめてくれてた。


「しずく、ずっと笑ってる。かわいい」


「んぇっ……な、なんかそれ……反則っ」


パレードの音楽が遠くから聞こえる中、ふたりで歩いたディズニーの街。

キャストさんに手を振ってもらうたび、彼が照れくさそうに手を挙げ返すのが、なんだか微笑ましくて。


「見て見て!ダッフィーのポップコーンバケツ……!これ、おそろいで買っていい?」


「もちろん。俺もつける」


「ほんと? やったぁ〜♪」


ミニーのカチューシャも、わたしがつけたら「似合ってる」って、まっすぐ言ってくれて。

わたしより背の高い彼の隣で、手をつないで、夢の中みたいな景色の中を歩いた。


――水のスプラッシュアトラクションでは、まさかのわたしだけびしょ濡れになって。


「しずく、タオルある?」


「ん……だいじょぶ、でも……きみのほうが心配。風邪ひかない?」


「いやいや、びしょ濡れなの君だよ?」


ふたりで笑いながら、彼がそっと髪をタオルで拭いてくれた。

ぬれた前髪を優しく払ってくれる手つきに、胸がきゅんってなった。


「……ねぇ、しずく。ちょっとだけ、静かなとこ行こうか」


そう言って、連れて行ってくれたのは、噴水が見える小さなベンチ。

パークの中なのに、ここだけが少し、夢の世界の“裏側”みたいに静かだった。


彼が隣に座ると、わたしの手を取って、しばらく何も言わなかった。

ただ、夜風の中で、手の温度だけがぽかぽかと、心に広がっていく。


「……楽しかった?」


その一言が、なんだか、胸の奥に届いて。


「……うん。わたし、こんなに笑ったの、久しぶりだった。きみに会って、ちゃんと……また“笑える自分”に戻れた気がする」


彼は黙って、わたしをそっと見つめた。


その目が、静かな湖みたいに深くて、まっすぐで。

わたしの全部を、包み込むみたいに優しくて――


気づけば、彼の肩に、わたしは寄りかかってた。


「……ねぇ、キス、してもいい?」


わたしからそう言ったのに、声が震えてた。

でも彼は、すぐにわたしの手をぎゅっと握ってくれた。


「……しずくから言ってくれるなんて、うれしい」


唇が、そっと重なった。


柔らかくて、やさしくて、

でもどこか、奥に熱を秘めたキスだった。


最初はそっと触れるだけだったのに、

何度も、何度も、彼はわたしの名前を心で呼ぶみたいに、

ゆっくりと唇を重ねてきて――


わたしも、目を閉じて応えた。


胸の奥がきゅんと鳴って、

あの夏の怖かった記憶が、少しずつやさしさに塗り替えられていく。


今夜は夢の国で、

わたしは本当に、ふたりでいられる“現実”を生きてる。


「……ありがとう、きみが、迎えにきてくれて」


「ありがとう、しずくが、手を伸ばしてくれたからだよ」


どちらからともなく、もう一度だけ、深く唇を重ねた。


わたしの世界には、もう水の呪いなんてない。

あるのは、あなたの温度だけ。


――そろそろ、みんなのところへ戻ろう。


パレードが始まる音が、遠くから聞こえてきた。

でも、わたしは彼の手をもう一度強く握る。


「……夜も、一緒にいてくれる?」


「もちろん。今日は……朝まで、ずっと一緒だよ」


うん、わたしも、そう思ってた。

今夜、夢の国で、あなたと――わたしの“次の夏”が始まる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る