第一章「#きみだけが、わたしを見てくれた」

波の音が、ずっと耳の奥に残ってる。




ざぶん、ざぶん……って、身体の芯まで濡らしてくるみたいで。


それなのに、わたしのスマホは、なぜか濡れていない。


通知も、コメントも、誰からの反応もないくせに、


配信アプリだけは、ずっと動き続けていた。




「……これ、ほんとにライブなの?」




画面には、わたしの顔が映ってる。


でも、どこか色が薄い。まるで、世界ごと“加工”されてるみたいに。




そして、その背後。


水面のきらめきの中に、彼――あの少年が、いる。




「きみ、名前は?」




わたしが聞くと、彼はちょっと目を伏せて、でも優しい声で言った。




「……澪。水城 澪っていうんだ」


「へぇ。ちょっと古風っぽいね」


「きみは、黒咲りりあ……《SPLASH☆SUGAR》のセンター」




わたしの口角がぴくりと上がった。




「ふふん♪ よくご存じで。っていうか、ファンなの?」


「……たぶん、違う。でも、ずっと見てた」


「えっ……?」




目を見開いたわたしに、彼はふわっと微笑んだ。




「SNSの“見せる君”じゃなくて、


その奥にいる、“本当の君”を、知りたかったから」




その言葉が、なぜだか少し――くすぐったかった。




「なによそれ……口説いてるの?」


「もしそうだとしても、君は信じないでしょ?」




図星すぎて、言い返せなかった。




浜辺には、わたしと彼しかいない。


空は濃紺で、星ひとつない。


だけど不思議と、怖くなかった。




「じゃ、試してみようよ」


「なにを?」


「この“世界”が、ほんとに“恋をしなきゃ出られない”なら――本気で恋、してみればいいじゃん」




「……本気で?」




「そう。本気で。わたしが、アンタに恋したら。


それで出られたら、それが答えってこと」




「そんなこと、できるの?」




「できるかどうかじゃなくて、やるのよ。だって、わたし、“センター”だもん」




そう、バズるために生きてきた。


誰かの“視線”を浴びることが、わたしの証明だった。




でも――




「君は、誰にも“見られてない”って、思ってたんじゃないの?」




澪の問いかけに、胸が詰まる。




そう、ずっと。


完璧なメイクも、加工も、かわいい笑顔も――


“演じてる”ことに気づいてほしかったのかもしれない。




「……わたしを、ちゃんと“見て”くれた人なんて、いなかったよ」


「なら、今ここで、ちゃんと見るよ」




澪はそっと、わたしの手を取った。




彼の指先は、驚くほど冷たくて、


なのに心臓の奥が、じんわりと温かくなっていく。




「……ねぇ、澪」




「なに?」




「ほんとに、“好き”になってくれたら……ここから、出られるの?」




「……うん。きみが“本気で”誰かを好きになって、


その人も、同じ気持ちなら。


――呪いは、解ける」




澪の目は真剣だった。


ふざけてない。


怖がらせようとしてるわけでもない。




だから、わたしは静かに言った。




「……じゃあ、教えて。


どうやったら、“本気の恋”って証明できるの?」




彼は、わたしの瞳をまっすぐに見つめて言った。




「君のSNSを、ぜんぶ消して」




「……は?」




「見られることに依存してない、君自身の気持ち。


それだけでぼくに向き合えるなら――


それが“恋”だと思うから」




スマホを握る手が震えた。




「それ、つまり……“私のすべて”を、捨てろってこと?」




「違うよ。“君のすべて”は、ここにある。


外にじゃない。君の中に、ちゃんとある」




その言葉に、


初めて“誰かに肯定された”気がした。




アイドルって、笑ってるだけじゃダメ。


“かわいさ”を維持しなきゃいけない。


ファンの期待、世間の目、炎上、数字、拡散――


ぜんぶ、背負って生きてきた。




でもこの世界では、


わたしが“わたし自身”でいなきゃいけない。




「……じゃあ、やってやろうじゃない」




震える指で、配信アプリをスワイプ。


SNSのアカウントを開いて、


投稿履歴をひとつ、ひとつ、消していく。




ファンの声も、


バズったネタも、


「かわいいね」の言葉も。




全部。




最後に、自分のプロフィールを“削除”したとき――




スマホの画面に、ひとことだけ浮かんだ。




《#君は、見られるためじゃなく、愛されるためにいる》




その瞬間、世界が、少しだけ――“現実”に近づいた気がした。




「……澪、これで……わたし、変われるかな?」




「もう、変わってるよ。


今の君が、いちばん“かわいい”」




その言葉が、


これまでの人生で、いちばんうれしかった。




でも、まだ出られない。


きっと、それだけじゃ足りない。




「……澪、わたし、ほんとに好きになっちゃったかも」




「うん。……ぼくも、だよ」




照れくさそうに、微笑んだ彼が、


ほんとうに、ほんとうに――


現実にいたらよかったのに、って思った。




でも、願わずにはいられなかった。




「もし、ここを出られたら……本物の君に、もう一度会いたい」




「会えるよ。絶対に」


「……なんで、そんなふうに言い切れるの?」




「だって――“好き”って気持ちは、


どんな“画面”より、強いから」




ふたりの手が、


静かに、でもしっかりと重なった。




そのとき初めて、


わたしの背後にあった海が――


すこしだけ、静まった気がした。

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