1945年8月6日(月)エピローグ

 長く、永遠にも感じられた地獄のような夜が明け、人々は静かに防空壕を出た。

 外に広がるのは、息をするのも苦しいほどの焼け焦げた匂いと、果てしなく広がる灰色の世界だった。

 松月堂があった場所は、もはや影も形もなく、ただ崩れた土壁と焼け残った瓦礫の山があるだけだった。

 菓子の甘い匂いが充満していたはずの空間は、今は死の匂いに満ちている。

 灰色の灰が風に舞い上がり、足を踏み出すたびにカサカサと音を立てる。


 街全体が骨と化していた。


 建物の残骸が、天に向かって突き刺さっている。

 源さんは、まだ熱を持った土壁に手を触れる。その熱が、肌に焼けるように残り、声にならない嘆きが、喉の奥にへばりついていた。


 ハナは、茫然と立ち尽くし、ただゆっくりと目を動かしていた。

 見慣れたはずの、愛しい記憶が詰まった景色は、もうどこにもない。視界に入るのは、黒焦げの柱、砕け散った瓦、そして異様な静けさだけだ。瓦礫の山からは、かすかな呻き声や、助けを求める誰かの呼び声が聞こえる。

 しかし、応える声は遠く、細い。どこからともなく、水を求める声、母親を探す子どもの泣き声が、風に乗って聞こえては消えていく。

 太陽が、真っ赤に燃え尽きた街を照らし出す。その光は、救いをもたらすどころか、ただひたすらに、惨劇の跡を白日の下に晒し出すようだった。それは、血の色のようであり、街が流した涙のようでもあった。


 この日から、前橋の街の記憶は、静かに、しかし決定的に、その姿を変えた。

 そして、私たちもまた、この記憶を語り継ぐ責任を負う。

 この悲劇が二度と繰り返されないことを、心から願い、命の尊さと平和のありがたさを、私たちは決して忘れてはならない。


 焼け跡に立つ人々の背中には、言葉にならない悲しみと、それでも生きていこうとする微かな光が、宿っているように見えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る