1945年7月27日(金)

 朝、源さんは店の戸を開けた。昨夜、ハナとケンちゃんが見たという不穏な空の光景が、源さんの胸に重くのしかかっていた。

 店の中の空気は、昨日までとは比べ物にならないほど張り詰めている。通りを歩く人々の足取りも、どこか覚束ない。皆が皆、何かから逃れるように、ひそひそと囁き合いながら足早に過ぎ去っていく。

 店番をする美佐子の顔にも、昨夜からの緊張が残っていた。甘味は贅沢品。それでも、わずかな配給の材料をやりくりして、菓子を作り続ける。煎餅を焼き上げる香ばしい匂いが、この閉塞した街の空気に、ささやかな希望を灯すようだった。それが、この街で菓子屋を営む自分の、最後の意地だった。松月堂の灯を消すわけにはいかない。


 昼下がり、源さんは店の奥で、古いラジオのダイヤルを回した。雑音ばかりの向こうで、遠くの爆撃の音が、断片的に聞こえてくる。それは、自分たちのいる街ではない、どこか別の場所で起こっている地獄の響きだった。

 この街にも、いつかその日が来るのだろうか。美佐子は、窓の外をじっと見つめていた。彼女の視線の先には、町の中心部にある防空壕へ向かう人々の列が見える。皆、無言で、顔には決意と疲労が入り混じっていた。源さんは、黙って帳簿を閉じた。鉛筆で書かれた数字は、この街の静かな変化を克明に記している。しかし、その数字以上に、人々の顔から消えていく笑顔が、源さんの胸を締めつけた。夕焼けが、店を、そして街全体を、昨日より一層深く、そして不吉な色に染め上げていく。

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