1945年7月25日(水)
朝、美佐子は松月堂の店先を掃いた。
昨夜は遠くで空襲警報が鳴り響き、何度も店の奥から空を見上げた。窓の外の闇の向こうで、轟音が響くたびに、心臓が大きく跳ねた。夜が明けても、胸に残るざわめきが消えない。
朝のラジオは、遠くの街で空襲があったと報じていた。聞き慣れない地名だったが、空の色の変化を肌で感じるほど、戦争はすぐそこまで来ていた。街を行き交う人々の足取りも、どこか重く、急いでいるように見える。
昼下がり、店番をしながら、美佐子は棚の奥に手を伸ばした。指が触れたのは、古くなった菓子の木型。蜜の匂いはとうに消え、代わりに、焦げ付いたような乾いた匂いが鼻をついた。それは、街のどこかで、すでに何かが燃えているような匂いだった。
遠くから、ケンちゃんの甲高い笑い声が聞こえる。それは、この街にまだ残された、かすかな生命の証だった。美佐子は、ただ静かに、その木型を磨き続けた。冷たい木型の感触が、手のひらに沈む。この手だけは、まだ汚されていない。この手で、夫の帰る場所を、家族の日常を、守り通さなければならない。美佐子は、固く唇を結んだ。
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