1945年7月22日(日)
日曜の朝、源さんは松月堂の戸を開けた。普段なら家族連れや買い物客で賑わうはずの通りも、今日は人影まばらだ。
静まり返った店の中には、昨日焼いた煎餅の香ばしい匂いがまだ残っている。甘味は、もはや贅沢品と化した。それでも、わずかな配給の材料をやりくりし、日持ちする煎餅や素朴な菓子を作り続ける。それが、この街で菓子屋を営む自分の、最後の意地だった。
暖簾をくぐる客の姿は少ないが、たった一人でも、松月堂の菓子を求めてくれる人がいる限り、この火を絶やすわけにはいかない。
昼下がり、店番の美佐子が、窓の外をじっと見つめていた。彼女の視線の先には、町の中心部にある防空壕へ向かう人々の列が見える。
人々は皆、無言で、しかし足早にその列に加わっていく。源さんは、黙って帳簿を閉じた。鉛筆で書かれた数字は、この街の静かな変化を克明に記している。売り上げの減少、材料の高騰。何よりも、人々の顔から消えていく笑顔が、数字以上に重い。
夕焼けが、店を、そして街全体を、昨日より一層深く、そして不吉な色に染め上げていく。橙から紅へ、そしてやがて紫へと変わる空の色は、まるでこの街の運命を暗示しているかのようだった。源さんは、明日も、この戸を開けるだろうか。問いは、誰にも答えられないまま、夜の闇に吸い込まれていった。
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