1945年7月21日(土)
土曜の朝、美佐子は洗濯物を物干し竿にかけながら、鉛色の空を見上げた。厚く垂れ込めた雲は、いつ降り出すか知れない雨の予感をはらんでいる。だが、美佐子の胸を締めつけるのは、それだけではなかった。
この数日、遠くで聞こえる低いうなり音や、ラジオから流れる不穏なニュースが、いつ来るか知れない空襲の予感となって、彼女の心に重くのしかかっていた。夫の声が、ふと耳の奥で蘇る。
「心配するな。必ず帰る」
出征前に、強く抱きしめてくれた時の、あの確かな温もり。しかし、今ではその言葉も、遠い雷鳴のように、ただ空虚に響くだけだった。
松月堂の店先は今日も静かだ。客の姿はまばらで、店番をする源さんも、どこか上の空に見える。時折、隣の家から聞こえるケンちゃんの甲高い笑い声だけが、この街にまだ残された、かすかな生命の証だった。
美佐子は、棚の隅に置かれた夫の好物だった菓子の木型にそっと目をやる。以前は甘い香りを放っていたその木型も、今では砂糖も蜜も底を突き、もう作れない。ただ乾いた粉の匂いがするだけだ。けれど、木目の奥に染み付いた、かすかな甘い香りは、まだ消えずに残っていた。
その香りが、希望なのか、あるいは遠い日への諦めなのか、美佐子には分からなかった。ただ、じっとその木型を見つめることしかできなかった。
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