1945年7月17日(火)

 朝、美佐子は、夫の出征前に撮った写真にそっと触れた。セピア色になった写真の中の夫は、屈託のない笑顔でこちらを見ている。埃を払う指先に、彼の軍服の皺や、少しはにかんだような表情までが、鮮やかに蘇る。

 家の奥からは、防空壕に運び込むための行李こうりを一つ、また一つと運び出す音が聞こえていた。そのたびに、古びた壁の板が軋む。

 ここにある全てが、いつ消えてもおかしくない。その漠然とした、しかし確実な事実が、肺の奥を締めつけるように重くのしかかった。彼の無事を祈ることだけが、今の美佐子にできるすべてだった。


 広瀬川は、今日も何も言わず、ただ静かに流れている。川面に映る夏の雲は、あの日と変わらない。けれど、川辺で遊ぶ子どもたちの声は、以前よりずっと少ない。

 夕食は、芋の蔓の味噌汁だけ。わずかながらも米は入っているが、その量は日ごとに減っていく。夫がいた頃は、囲んで笑い声が満ちた食卓だった。今、隣家からも話し声は聞こえない。

 美佐子は、夫の無事を祈る。遠い戦地の夫も、この静かな夕焼け空を見上げているだろうか。問いは、誰にも届かないまま、風に消えていった。空は茜色に染まり、地平線には薄紫色の靄がたなびいている。その光景は、美しくもどこか物悲しく、美佐子の心に重く沈んだ。

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