【第2章】出会いの午後~秘密の扉の向こうで~

その日は、風が少し強かった。

夏の終わりが近づいている。もうすぐ、新しい季節が来る。


けれど、わたしの胸の中は、まだあの日の記憶に縛られていた。


静かな午後。

兄の伊吹に「今からちょっと手伝いに来てくれない?」と頼まれて、わたしは駅前のカフェに向かっていた。


「サークルのメンバーが一人、どうしても顔出せないって言うからさ。その代わりに、ちょっと“視線役”になってくれると助かる」


「視線役ってなに?」


「まぁアレだ。読者視点ってやつ?」


「それって、素人でもいいの?」


「素人じゃなきゃ意味ないんだってば。玄人目線は俺がやるからさ」


兄は昔から、こうやって軽口を叩いてわたしを巻き込んできた。

でも、どこか憎めない。

本当に嫌なことは無理に押しつけない。ちゃんと、境界線を守ってくれる人。


そんな兄が、わたしにとっては世界の救いだった。



カフェのテーブルについたとき、彼はもういた。


黒髪に、少し気だるそうな目。

一見、普通の高校生。でも、何かが違う。

──背中が、どこか歪んで見える。


「湊ー、紹介するよ。俺の妹、ひより。ちょっと今日、打ち合わせの資料に付き合ってもらってる」


「……初めまして、佐原 湊です」


「よろしくお願いします……!」


彼は、一礼して、わたしと目を合わせない。

どこか、怯えるような仕草だった。


──あ、この人……


わたしの中の“なにか”が、ざわりと動いた。


これは、似ている。

かつて、わたしの中にいた“美琴”に。


あの、闇に沈んだ冬の夜。

家の中で、怒鳴り声が飛び交い、母が包丁を持って父に叫んでいた。


「お前が全部悪いのよ……ッ!」


そしてその日、わたしはもう一人の“わたし”と出会った。


美琴──冷静で、鋭くて、わたしとは正反対の人格。

彼女は、わたしを守るために現れた。でも同時に、憎しみの象徴だった。


彼女が残していった最後の言葉は、

「呪いはもう、完成してる」


そして数日後、両親は事故で亡くなった。



あの夜、美琴はわたしの中から消えた。


遺されたのは、日記帳の走り書きだけだった。


『あなたが自由になるには、わたしがこの手を汚すしかなかった。

 この罪は、わたしだけが背負っていく』


それから、わたしは祖父母に引き取られて、穏やかな日々を過ごしている。


……でも、彼──佐原 湊の中には、まだ“誰か”がいる気がした。



「……君さぁ、兄貴と似てないね。声も落ち着いてるし」


「それ、よく言われます」


「そっか。なんか、君のほうが大人っぽいなぁって。……伊吹さんは、こう……」


「パシリ?」


「──それ言うと怒られません?」


くす、と笑った湊の口元が、少しだけ緩んだ。

ほんの少しだけ、その心に触れた気がした。


わたしはそのとき、思った。


この人の中には、なにかが眠っている。

たぶんそれは、まだ名前もない、苦しみ。

誰にも知られない場所で、誰かと生きている──


そういう人の目だった。



その後、会話の流れで冗談めかして兄が言った。


「なぁ、湊の漫画、買ってく?」


「えっ、え?」


「妹に読ませていいもんなのかよ、伊吹さん……!」


「あー、ごめんごめん! やっぱやめとくか? 表紙えっちいしな?」


「わあ……なんか、すごく言い方がいやらしい……」


わたしは笑ったけれど、湊の顔は真っ赤だった。


──けれど、その背後に、ふっと別の視線を感じた。


見られている。

この瞬間だけ、もう一人の誰かに。


“タスケテ”


その一言だけが、わたしの中に、焼き付いた。

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