【第1章】0号室の朝 ~一人きりじゃない、という錯覚~

0号室には、時計の音がない。

カーテンも遮音もない、ただの元・物置部屋。だけど今の湊にとっては、唯一“呼吸ができる場所”だった。


「……なぁ、ユメ。昨日描いた原稿、ちゃんと見てくれたか?」


机に広げたノートPCの前で、湊は小さく声を落とす。


その声に反応するように、背後から布団の山がもぞりと動いた。


「んー……。アレ? あれ、まだ背景粗いし、トーンも甘い。没」


「えー、ちゃんと夜中まで頑張ったじゃん……」


「頑張った? 湊、それってただの自己満でしょ。私の作品に必要なのは“気合い”じゃなくて“完成度”だよ」


ユメは布団の中からひょこっと顔を出す。湊の目には見えないが、彼女の存在は確かに“そこ”にいる。


いつからだったか、この人格と一緒に暮らすようになったのは。


“心を切り離さなければ、生き延びられなかった”


そう表現するのが、いちばん近いのかもしれない。



学校では目立たず、友達もつくらず、時間を潰すようにただ日々をやり過ごす。

午後六時が門限で、スマホは禁止。ゲームなんてもってのほか。バイト代の一部は親に渡し、文句を言えば「恩を仇で返す気?」と返される。


そんな家庭に帰って、まともな会話ができるわけがなかった。

だからこそ、0号室は必要だった。

そして、ユメという存在も。



「……今日の放課後、伊吹先輩が打ち合わせしたいって言ってたけど、ユメは出る?」


「パス。眠い。てか、伊吹くんさぁ、私のことアシだと思ってるよね、完全に」


「……たぶん“気前のいいパシリ”って思ってるのは君だけだと思う」


「ふーん。まぁいいけど。私が出るとまた“暴走しない?”って目で見られるの、正直ウザい」


「……それは……」


言いかけて、湊は口を閉じた。

過去にあった“暴走”。

今はもう、抑えられている。

でも、あの頃の記憶は、伊吹の目に残っているのかもしれない。



部屋のドアがノックされた。


「湊、今日のバイト代、もう入ったでしょ? 今月、光熱費高いのよ」


「……うん、わかった」


返事をした声の温度が、自分でもわかるほど冷えていた。


“あの人”には、これ以上の言葉は必要ない。



その夜、湊は伊吹とサークルメンバーで集まったカフェで、ひとりの少女を見かけた。


明るい茶髪に、やや大きめの制服のブレザー。

彼女は、伊吹の妹――天野ひより。


そして、湊は知らない。

この日、彼女が“とある姿”を目撃することになるとは。

0号室の秘密が、彼女の前で揺れ始める、その始まりになるとは。

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