0号室のふたり

@milla1201

プロローグ ――「目を閉じれば、そこにいた」

「……まただ」


視界の端が揺れて、身体が急にふわりと浮いたような気がした。


夜。静まり返った四畳半。天井に走るひび割れの線をぼんやりと見上げながら、佐原湊(さはら・みなと)はゆっくりと呼吸を整えた。


壁の向こう、テレビの音と何かを叩くような音が断続的に響く。

母親の機嫌が悪い夜だ。理由はわかっている。恋人と喧嘩でもしたのだろう。


「……こっちに当たんなよ……」


口に出すと、ひび割れが少し広がったような気がして、急いで口をつぐんだ。

あの人は、壁越しの音にさえ怒ることがある。


バイト代を渡すのが少し遅れただけで、「なにをコソコソ隠してるの?」と怒鳴られ、

門限を30分過ぎただけで、「もう帰ってこなくていい」と鞄を窓から投げ捨てられた。


そんな家に、今日もちゃんと帰ってきた自分が、少しだけおかしく思えた。


* * *


「起きてるの?」


声が響く。


天井じゃない。耳の奥のほうから、微かに声がした。

自分の声じゃない。男の声でもない。どこか無邪気で、どこか退屈そうで、だけど胸の奥を掴むような――女の子の声だった。


「……ユメ?」


湊は、布団の上で薄く笑った。

自分の中にいるもうひとりの“誰か”。

初めて気づいたのは中学の終わり頃。

突然ペンを持って漫画を描き始め、自分には描けないような世界を作るその人格は、自らを「ユメ」と名乗った。


「つまんないね、今日も。学校、別に行かなくてよくない?」


「ダメだろ……。今日は打ち合わせあるんだよ」


「でも、怒ってたじゃん。伊吹のこと」


「……あの人は、軽すぎんだよ」


天野伊吹(あまの・いぶき)。ひよりの兄。サークルの副代表。

ふざけてばかりいるが、いざという時は一番頼りになる人だ。


ユメは、毎年コミケの手伝いに来てくれる彼のことを“気前のいいパシリ”程度にしか思っていない。

だが湊にとっては、数少ない“大人”と呼べる存在だった。


「湊」


「なに」


「……ずっと描いてていい?」


ユメの声が、小さく震えていた。


「描いてていい? ずっと、ずーっと、世界を作ってていい?」


「……うん」


返事をしたあと、湊は思う。

この声を、いつまでこうして聞いていられるのだろうかと。


* * *


ユメは、学校に興味がない。

教室の話題も、昼食の時間も、誰と誰が付き合っているかなんてことも、彼女には関係なかった。


だから当然、天野ひより(あまの・ひより)のことも知らなかった。

学年が違うわけでも、席が遠すぎるわけでもない。

ただ、「知らない」で済まされてしまうほど、ユメの世界は狭かった。


ひよりを初めて“知った”のは、今年の夏コミだった。


偶然、ユメが出ていたタイミングで、伊吹と共にサークルブースを訪れたひよりが――

作品を見て涙を流していた。


「……読んだことのない感情でした」


そう言って、ぽろぽろと目元を拭う彼女の姿が、ユメの脳裏に焼き付いた。


ひよりは、ひと目でユメに“気づいた”。


他の誰でもない、自分自身も気づかないユメの“影”を見つけて、真っ直ぐな瞳で声をかけてきた。


「あなた、……名前、ありますか?」


それが、二人の出会いだった。


* * *


別の人格に“気づける”というのは、単なる勘や観察眼ではない。

ひよりには、かつて美琴(みこと)というもうひとりの自分がいた。

憎しみの感情から生まれた人格。

毒親に呪いをかけ、両親を事故で喪ったあの日、美琴はひよりの中から静かに消えていった。


美琴の最期の声は、日記帳の裏表紙に書かれていたひとこと――


「あなたを、自由にしたかった」


それ以降、ひよりは“ひとり”になった。

けれど、完全に“わかってしまった”のだ。

別人格がいる人間の、ちょっとした息づかいや、目の揺れの意味を。


だから――ユメにも、気づけた。


* * *


その冬、湊の家ではまた母親の怒鳴り声が飛んでいた。


「なんでバイト代、全部出さないの!? 私がどんだけ苦労してると思ってるの!!」


いつものことだった。だがその日は違った。


ユメが、出てきた。


母親の叫び声に反応するように、激しい頭痛とともに、ユメが表層に現れた。


「……っざけんなよ」


母親の前で、別人格が初めて怒声を放った瞬間だった。


壁を殴り、ドアを叩きつけて家を飛び出す――

そして、偶然その現場を目撃してしまったのが、兄を探して町に出ていた、天野ひよりだった。


「……ユメさん?」


「……なんで、ひよりがここに」


震えるユメの唇からこぼれた言葉は、ただ一言――


「タスケテ」


* * *


この日から、すべてが動き出す。


湊とユメ。

ひよりと美琴。

ふたりの“0号室”の記憶が、交差していく――

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