元警察官 長井昭二の説明
お待たせしたね。ええ、私が長井です。ご用件は佐竹さんからうかがっていますよ。太田
はあ、なるほど。当時の状況はよくご存じなんですな。で、私どもが確認した事実のみをお聞きになりたいと。承知しました。なにぶん昔のことですから、思い出せる範囲内ではありますが、できるだけ主観を交えずにお伝えしましょう。
まずは、現場検証の結果です。
玄関、室内に争った形跡はありませんでした。台所のガスコンロにかけられていた小型鍋には人肌程度の温かさを残す味噌汁が少量残されておりました。室温約二十三度の環境でこの量の味噌汁の温度が百度から三十五度程度まで下がるのに必要な時間は約四十分と推測されるため、火を止めたのは約四十分前――つまりその時点までは在室されていたということになります。トイレ、風呂場、押し入れの中も確認しましたが特段の異常はなく、南側のベランダに面した二カ所の窓はどちらも施錠されておりました。念のため外に出て官舎の南側に回ってみましたが、昼前まで降っていた雪が敷地内一面に積もっており、そこに足跡は確認できませんでした。つまり、窓から外に出たという可能性はないということです。
次に、聞き込みの結果です。
当時、同じ棟に在室されていた住人のうち、争うような声、悲鳴、不審な物音などを聞いた方はおられません。冬場でどのお宅も窓をしめきった状況ですから、この証言に関しては参考程度という扱いになります。次に、宿舎の出入り口側で立ち話をされていたお二人の女性によれば、生協の配達員到着の約二十分前に、太田さん宅の向かいの住人が買い物に出かけられた以外、人の出入りはなかったと証言されています。ご存じだと思いますが、このお二人は、生協の配達員と共に太田さん宅の異常に気づかれた第一発見者に該当する方々です。ちなみにお二人は、当該宿舎の前で約一時間、立ち話をされていたとのことです。
最後に、ご主人――あなたのお父さんの証言です。
唯一なくなっていたのは、奥様――あなたのお母さんが使っていたサンダル一足のみで、衣類、財布、通帳、印鑑、携帯電話、部屋の鍵など、すべて残されたままとのことでした。財布の中には数千円が入っていましたが、それ以外にどの程度の現金があったかはわからないとおっしゃっていたので、もしかすると幾ばくかの現金の持ち出しはあったかもしれません。
当時の私たち警察が把握していた状況は以上となります。
ああ、警察の見解ですか。
誘拐や連れ去りなどの事件性は無しと判断しました。つまり、あなたのお母さんが、ご自身の意思で家を出られたのだろうということです。
どこから? もちろん、玄関からでしょうな。ベランダ側の窓には鍵がかかっていましたし、雪の上に足跡もありませんでしたから、そちらから外へ出たとは考えられません。玄関の方は、生協の配達員が訪問した時点でドアに鍵がかかっていなかったとの証言がありましたし、奥様が普段使いされているサンダルがなくなっていましたから、玄関から出られたと考えるよりほかはありません。
官舎の前で立ち話をされていた二人の女性の証言ですか。お向かいの加藤さん以外、だれも出かけてないと。ええ、たしかにそう証言されています。あ、嘘だとは考えておりません。たんに見逃されただけでしょうな。お二人は約一時間、官舎の前に立っておられましたが、その間、官舎への人の出入りをずっと監視されていたわけではありません。立ち話をされていたのです。会話というのは基本的に相手の顔を見ながら行うものですから、話に夢中になっていると、周囲のことが見えなくなるというタイミングは何度かあったでしょう。あなたのお母さんが官舎を出られたのがちょうどそのタイミングだったのだろうと、それが当時の私ども警察の見解です。
理由ですか。警察では理由まではわかりかねます。事件性無しと判断し、ご主人にも納得していただきましたので、今お話しした以上の捜査等は行っておりません。その後、ご主人から奥様の行方不明者届の提出があったとは聞いておりませんので、ご家庭内の事情によって家を出られたのだろうと考えております。
事実のみをとのご要望でしたので、あえてお役所的な説明をさせてもらいましたが、こんなんでよかったですかな。
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