生協の元配達員 佐竹勇次の証言

 はい、私が佐竹です。山根さんからは連絡をいただいています。

 そうですか。あなたがあのときの赤ちゃんですか。十七年も経つんですね。

 ええ、110番に通報したのは私です。


 いえいえ、お礼を言っていただくようなことではありません。かえって騒ぎを大きくしてしまって、ご迷惑をおかけしたんじゃないかとも思っています。


 それで、若奥さん、えっとお母さんはその後も見つかってないんですね。じゃあ、お母さんの記憶とかは全然――ああ、写真がありますよね。うん、口元は似ておられるかもしれない。


 こうしてお話ししていると、いろいろ思い出してきました。寒い日でしたね。昼前まで弱い雪が降っていて道路はつるつるに凍結していました。公務員宿舎の手前にある交差点は特に滑るんですよ。配達を始めて最初の冬だったんで運転するのが怖かったなあ。


 ええ、もちろん、覚えていることなら何でもお話しいたします。


 今でもはっきり覚えているのは赤ちゃんの泣き声です。そうか、あれはあなたの泣き声ということになるのか。私が玄関ドアの前に立ったときはまだ泣き声は聞こえていませんでした。ブザーを押して、たぶんその音で起こしちゃったんだと思います。最初はドア越しに小さな泣き声が聞こえて、いつまで経っても若奥さんからの返事はないし、そんなことは今までなかったし、なんかまずいんじゃないかって思ったんです。それでドアのレバーを引いてみたら鍵がかかってなくて、ドアを開くと赤ちゃんの泣き声が大きく聞こえて、嫌な予感っていうのかな、普通じゃないなって思いました。


 部屋の中には山根さんの奥さんと、もう一人、そうですそうです、森さんの奥さんの三人で上がらせてもらいました。とはいっても、私は玄関あたりでおろおろしてただけですけど。山根さんと森さんは、声をかけながら室内を隅々まで探されていました。もちろん、トイレも風呂場も、あとベランダも見たっておっしゃってました。冬なのでベランダは使われていなくて窓には鍵がかかっていたそうです。ええ、そのことはお二人があとで警察にたずねられていたのを横で聞いていましたから間違いないです。


 はい、台所の様子は私も見ています。流しの横にまな板が置かれていて、真っ二つになった小ぶりなトマトがころんころんと切り口を上に向けていました。横には包丁もありました。そうなんです。そのトマトがやけに印象に残っているんですよ。なんていうのかな、ほんとにもう、今の今までそこに若奥さんがエプロン姿で立っていて、トマトを切って、そこであっと何かを思いついて、一瞬だけその場を離れたんだろうって空気感が残ってたんです。私は直接確かめていませんが、かなり温かいお味噌汁も鍋に残っていたみたいです。たぶん生協の配達品を受け取ってから昼食をとろうと思われてたのじゃないでしょうか。それとも配達を受け取る前に食べてしまおうとされてたのかもしれません。そうそうストーブもつけっぱなしでしたね。どちらにしても、遠くに出かけるつもりはなかったと思います。これは私だけでなく、その場にいた全員がそう感じていました。そりゃあもう、赤ちゃんも寝かされたままだったていうのがね、一番の理由ですよ。


 警察の方は110番してすぐにパトカーで駆けつけてくれました。五分とかからなかったんじゃないでしょうか。公務員宿舎のすぐ近くに警察署があるんですが、パトカーもちょうど近くを巡回中だったみたいです。ベテランっぽい年配の方と若い方の二人組でした。山根さんが状況を説明されて、その間、森さんは太田さんのご主人――あなたのお父様の職場に連絡を取ろうとされてました。私は残りの配達のことがあるので、職場に連絡を入れて代わりの者を手配してもらって、そのあとは警察の方に事情を聞かれたりしていました。


 そのうち太田さんのご主人と連絡がついて、警察の方が部屋の中を確認する許可を取って、室内を調べ始めました。ご主人と電話でやりとりをしながらかなり念入りにあちこちを確認されていましたね。途中で若い方の警察官が出てきて建物の裏に回って、ベランダからの出入りがないかも調べていたみたいです。


 しばらくすると近所の人たちが集まってきました。野次馬ってやつですね。警察官はその人たちにも不審な人物を見かけてないか、太田さんの奥さんが出かけていくところを見ていないかを聞いていました。そんな質問の仕方をしたら、若奥さんがいなくなってしまったってことがみんなに知られてしまうのにって、私は一人気を揉んでいました。


 そこへお向かいの加藤さんが帰って来ました。山根さんがおっしゃっていたように、買い物をされていたようで、大きな買い物袋を抱えておられました。たぶんヨーカドーから帰って来られたんじゃないかな。ああ、当時は琴似の駅前にイトーヨーカドーがあったんですよ。加藤さんも警察官に質問を受けていましたが、騒ぎになる前に出かけていたからでしょうか、他の人よりは質問時間は短かったように思います。


 何日か経ってから山根さんに教えてもらったんですが、部屋に荒らされた様子もなく、ベランダからの出入りの痕跡もなく、なくなっていたのは玄関にあったはずの若奥さんのサンダルだけということでした。不審者の目撃情報もなかったことから、事件性はなく、若奥さんが自分の意志で玄関からどこかへ出かけていったのだろうという結論になったようです。


 私の考えですか。そうですね、私が見た範囲では玄関も室内もきれいに片付いていましたし、だれかに無理やり連れていかれたという感じはしませんでした。もしそんなことがあったら声とか音も響くでしょうし、宿舎の誰にもまったく気づかれないということはなさそうです。だからご自分の意志で出かけられたという警察の見解は正しいように思います。でも、それはどこか遠くへ行くとか家出というのではなくて、ちょっとした用事で、すぐに戻るつもりでの行動だったはずなんです。履いて出たのはサンダルですし、ストーブもつけっぱなし、赤ちゃんは寝かせたままで、玄関には鍵もかけてなかったですから。


 はい。おっしゃるとおりです。宿舎の前では山根さんと森さんがずっと立ち話をしていたので、この二人に気づかれずに出かけることは無理なんです。私が配達で太田さんのお宅を訪ねるまでの約一時間の間に出入りがあったのは配達員の私と、その二十分ほど前に買い物に出かけられた加藤さんだけなんです。加藤さんと太田さんは体格も髪型もまったく違うので見間違いはあり得ないとのことでした。若奥さんが二人に気づかれないように出かけたのなら、それは一時間以上前ということになります。でも私たちが室内を確認したとき、味噌汁の入った鍋はまだかなり温かかったので、長く見積もってもせいぜい三十分前ってところではないでしょうか。でもそのときなら山根さんと森さんが気づかないはずはないんです。


 それについては私もずっと不思議に思っています。ご存じかもしれませんが、「神隠し」だとか、「謎の失踪」とか、当時は結構話題になりました。でもそんな風に騒ぎが大きくなってしまったことで、若奥さんは戻るに戻れなくなってしまったんじゃないかなとも思うんです。私はあのとき、いきなり110番せずに、まずはご主人に連絡するべきだったんじゃないかと、それは今でも考えてしまいます。


 すいません、私のことはどうでもよかったですね。たぶん、今お伝えしたようなことは、すでにお父さんからお聞きになっていることばかりじゃないかと思いますが、私からお話しできそうなのはこのぐらいです。

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