公務員宿舎A棟の元住人 山根尚子の証言
まあ、あなたがヒナちゃんなの。素敵な娘さんになったわねえ。今、いくつ? そう、十七――ということは、あれから十七年ってことか。それでお母さんはまだ? そうよね、だからわざわざ話を聞きに来たんだものね。あ、ごめんなさい、こんなところで長々と。とにかく上がってちょうだい。ちらかってるけど、さあ、どうぞ。
あら、そんな気を使わなくてもいいのに。ぜんぜん、迷惑なんかじゃないのよ。まあ、おいしそうなクッキー。そうね、ヒナちゃんが選んでくれたんだからいただくわ。お話をうかがいながら一緒に食べましょう。今、お茶をいれるから、そこに座って待っててくれるかな。
さて、何から話せばいいのかしら。あの日のことは今もよく覚えているから何でも聞いてちょうだい。ん? お母さんの人柄? 印象? そっか、そっちの話ね。わかりました。、ヒナちゃんは他人の目から見たお母さん像が知りたいのよね。役に立つかどうかはわからないけど、聞いてちょうだい。
ヒナちゃんのお母さん――太田さんは、一言でいえば太陽みたいな人かな。ふふ、ぴんと来ないって顔をしてるわね。たしかに、太陽みたいっていうのは使い古されたたとえだし、具体的なことは何も言ってないんだけど、たぶん当時の太田さんを知っている人なら、「そうそう、ほんとに太陽って感じだよね」って、なると思うのよ。
とにかく、誰に対しても一切の分け隔てをしない人で、太田さんの口から悪口とか愚痴とかを聞いたことがなかったなあ。最初は無理していい人ぶってるんじゃないかって思ったんだけど、どうもそういうんじゃなくて、持って生まれた性格なんでだろうね。どんなことに関してもポジティブで、他人の言動はなんでも善意として受け取るし、いつでもどこでも気持ちのいい挨拶をしてくれるし、除雪当番で階段前の雪かきをやるだけでも楽しそうなんだよね。知り合って間もない頃は、こんな人が現実にいるんだなあって、びっくりしたわ。
あとは家庭菜園ね。あの宿舎には棟と棟の間に結構広い空き地があって、そこで家庭菜園ができるようになってたの。でも、私があそこに入ってた当時はあまり使われてなくて雑草が伸び放題だったのよ。そこに太田さんが引っ越してきて、せっかくこんな場所があるんだからって、一人で草抜きから始めて土も耕して、キュウリ、トマト、ナスとかの苗をホームセンターで買ってきたんだったかな。夏にはちゃんと収穫もできて、おすそ分けですって持ってきてくれたあたりから、ぐっと親しくなったって感じね。
そのとき、「山根さんも家庭菜園やりませんか」って声をかけてもらったけど、私は虫が大の苦手でお断りしたの。でも、太田さんのお向かいの加藤さんとか四階の森さんは次の年から一緒に畑仕事をするようになってたわ。それからも少しずつ参加する人が増えて、みんなで抜いた雑草とか生ごみから堆肥を作ったり、連作すると土がやせるからって、一年毎に畑の場所を移動したり、かなり本格的だったと思う。あの辺は三月でもまだ雪が残ってるんだけど、そんな頃からもう土を起こしたり堆肥をすき込んだり、プロの農家さん並みにやられてたわ。でもちょっと本格的すぎてついていけない人がだんだん出てきて、最後までお付き合いしてたのはお向かいの加藤さんだけだったんじゃないかな。
とにかくパワフルで、エネルギーを周囲に振りまいてるっていうイメージ。だから太陽みたいな人って言ったの。
育児ノイローゼ?
ああ、ヒナちゃんのことが原因で出て行ったんじゃないかってことか。それはないんじゃないかなあ。見えてるところだけがその人の全部だとは思わないけど、太田さんが育児に悩んでるって印象はなかったわね。ヒナちゃんはよく寝る子で手がかからないって言ってたし。さっきも話したみたいに何でも前向きで、育児も楽しんでるって感じだったなあ。
えっと、こんな話でよかったのかな。
今の話に出てきた人? そうねえ、あの宿舎に入っていた人はみんな国家公務員だから長くても四、五年で転勤しちゃうんだよね。合同宿舎だから職場もばらばらだし。だからあまり深いお付き合いはないのよ。四階の森さんはどこだろ。あれから道内をいろいろ移ってて今は旭川だったかな。ああ、森さんはあの日、私と一緒にお部屋に入らせてもらった人ね。加藤さんはあのことがあった年の三月に東京へお引越しで、そこから先はわからないわね。ええ、加藤さんは太田さんとは正反対の地味な人ね。それで律儀な人だったわ。太田さんがいなくなってしまって、もう畑をする人もいないのに、まだ雪が残ってる二月末の引越し間際まで畑の土起こしとかしてたもの。
もし当時のことをもっと知りたいなら、あの生協の配達をしてたお兄さんがいいんじゃないかな。もうお兄さんじゃなくておじさんだろうけど。ちょっと生協に問い合わせてみようか。佐竹さんっていうんだけどね。まあまあのイケメンだったから名前覚えてるのよ。もし今も生協にお勤めだったらわかるかもしれないし。いいわよ、それぐらい。でも、あまり期待はしないでね。十七年も前のことだからさ。
とりあえずお茶にしましょう。いっぱいおしゃべりしてお腹もすいちゃったわ。
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