ヤブノナカ

@fkt11

十七年前の出来事

 未明からの雪は正午過ぎに止み、手稲山の山頂近あたりから広がりはじめた青空が天頂にまでさしかかろうとしていた。気温はマイナス三度。風はなく空気は鋭く澄み切っている。


 佐竹勇次は生協の宅配サービス員だ。今日は火曜日で、午前中に二十四戸分の配達を終え、いったん戻った配送センターで愛妻弁当を食べると、午後一時ちょうどに再び配送車を出し、下手稲通りを北西に向かっていた。

 信号待ちの運転席は暖房と窓からの陽射しでほどよく暖かい。カーラジオから流れてくる音楽に合わせ、人さし指がタタンタタンとハンドルにリズムを刻む。午後の最初の配達先は琴似にある国家公務員の合同宿舎だ。交差点の先、左手前方には五階建ての官舎が三棟並んで見えている。昭和の時代に建てられたであろう古びた建物だった。

 信号が青に変わった。対向車線のタクシーの前輪が空転している。この交差点は見た目以上に滑るのだ。佐竹はハンドルを握り直し、つま先でそっとアクセルを踏んだ。


 いつものようにA棟の東側階段の前に車を停める。官舎の前で立ち話をしていた二人の女性がそろってこちらに顔を向けた。佐竹は制帽のつばに軽く手を添えて頭を下げ、運転席を出ると荷台後部の扉を開いた。

「結構積もりましたね」

 佐竹は東側階段二戸分の配達品の仕分けをしながら二人に話しかけた。

「ほんと、年が明けてからよく降るわねえ」

「ここんとこ昼間でも気温はマイナスだし。あ、そうだ、生協さんの灯油がまた値上がりしてたじゃない。生協さんが値上げすると、みんな足並みそろえて上げるから困るのよねえ」

「ご迷惑をおかけして申しわけありません」

「あなた、そんなことをこちらのお兄さんに文句言っても仕方ないでしょ」

「そうなんだけどさ。あ、そのミンチのバラ凍結のやつ、お店で売ってないでしょ」

「これは宅配専用の商品なんです」

「それ、便利なのにどうして宅配だけなの」

「だから、生協のお兄さんに言っても仕方ないでしょって。欲しけりゃ宅配の会員になりなさいよ」

「あらまあ、生協の回し者みたい」

「他にも宅配だけの商品はたくさんありますよ。あとでパンフレットをお渡ししますね」

「そのパンフ、私ももらおうかな」

 あたりさわりのない話をしながら仕分けを終えた佐竹は、商品を詰めた青い二つのコンテナボックスを抱えると東側階段の入り口へと向かった。


 ここの官舎は各棟に三つの階段があり、それぞれの階段を挟んで各階に二戸ずつが向かい合う形で配置されている。公営住宅でよく見かけるタイプの造りだ。A棟東側階段の配達先は一階101号室太田さんと三階302号室の宮尾さんで、外で立ち話をしている二人は同じ階段の二階と四階の住人だった。

 佐竹は開いたままの風除室の引き戸をくぐり官舎の中に入ると、三段だけある階段を上ってコンクリートの床にコンテナを置いた。向かって左側にある101号室の前に立ち、ドアの脇にある呼び出しブザーのボタンを押す。鉄製のドア越しに室内で響くブザーの音が小さく聞こえたのを確認し、コンテナを再び胸の前に抱えた。

 返事がない。

 いつもならブザーの音とほぼ同時に「はーい」と若やいだ声がして、ドアの向こうでチェーンを外し開錠する音がするのだが、今日はそれがない。佐竹はコンテナを抱えたまま上半身をねじり、左の肘でもう一度ボタンを押した。そばだてた耳がブザーの音をとらえる。だが今度も返事がない。

 留守なのかな。

 佐竹がそう思ったとき、ドアの向こうから赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。この家には生後五ヶ月になる女の赤ちゃんがいる。たぶんその子の泣き声だ。機嫌よく眠っていたのを今のブザーで起こしてしまったのかもしれない。若奥さんはトイレにでも入っていて、すぐに出てこられなかったのかもしれない。タイミングが悪かったな。そんなことを考えながら、佐竹はドアの前で引き続き待ちの体勢を取った。しかしいつまで経っても返事はなく、ドアも解錠されず、聞こえてくるのは赤ちゃんの泣き声だけだった。


 ここで初めて佐竹は異変の予感を覚えた。コンテナを足元に置き、もう一度呼び出しブザーのボタンを押す。赤ちゃんの泣き声にブザーの音が重なる。それ以外の音はしない。佐竹の頭に、赤ちゃんの横で倒れている若奥さんという映像が浮かんだ。ドアのレバーに手をかけ手前に引くと、何の抵抗もなくドアが開いた。とたんに赤ちゃんの泣き声が大きくなる。少し遅れて暖かな空気が佐竹の頬をなでた。ストーブは焚かれているようだ。

「太田さーん、生協でしたー」

 返事はない。赤ちゃんは泣き続けている。

 これは明らかにおかしい。

 どうする。入ってみるか。いや、入るなら一人じゃない方がいい。

 佐竹は官舎の外に走り出て、まだ立ち話を続けている二人の女性に「すいません」と声をかけた。

「どうしたの」

「一階の太田さんなんですけど、様子が変なんです」

「様子が変?」

「お留守のようなんですが、玄関が開いていて、中で赤ちゃんが泣いてるんです」

「あら、どうしたのかしら」

「申しわけありませんが、ちょっと一緒に確かめてもらえませんか」


 三人で101号室の前に戻った。

 女性の一人がドアをゴンゴンとノックした。

「二階の山根ですけど、太田さん、いる?」

「四階の森でーす。ヒナちゃん泣いてるみたいだけど、大丈夫?」

 交互に呼びかけるがやはり返事はない。

 二人の女性は顔を見合わせた。

「そうだ、お向かいさんのとこじゃないかな」

 三人は同時に振り向いて、102号室のドアを見た。山根さんがブザーのボタンを押し「加藤さん」と呼びかけた。こちらも返事がない。森さんがドアレバーに手をかけてガチャガチャとやり、「留守だわ。鍵がかかってる」と二人に告げた。

「あ、さっきお出かけだったじゃない」

「そうだった。二十分ぐらい前だったっけ」

「この時間だと、たぶんいつものお買い物ね」

 三人は再び101号室のドアに向き合う。

「どうしようか」

「ヒナちゃん泣いてるし、このままってわけにはいかないよね」

「具合悪くて倒れてるってことも」

「あるかも」

 二人の女性はうなずき合い、「おじゃまします」と言ってドアを開けた。

 佐竹は二人の後から中をのぞき込んだ。見える範囲ではいつもと変わった感じはなかったが誰も出てくる様子はない。相変わらず聞こえてくるのは赤ちゃんの泣き声だけだった。


「太田さん、いないの? ヒナちゃん泣いてるよ」

「太田さーん」

「ちょっと上がらせてもらうね」

 同じ棟に住む二人には、間取りが同じということで敷居はあまり高くないのだろう。ためらう素振りのないままさっと靴を脱ぎ、もう一度「おじゃまします」と言って、室内に入っていった。

「太田さん、どこ?」「あらあらヒナちゃん、ママはどこいっちゃったの」「太田さーん」「いい? ここ開けるわよ」「ヒナちゃん、お腹空いちゃったかな」

 二人の声とあちこちのドアを開閉する音を聞きながら、佐竹は事の重大さを少しずつ実感し始めていた。どうやら若奥さんは室内で倒れているのではないらしい。そのこと自体はひとまずよかったということになるのかもしれないが、不在というのはどうとらえればよいのだろうか。主婦が玄関の施錠をせずに家を離れているというだけなら、「不用心なことだ」で済まされるかもしれない。だが生後六ヶ月にも満たない赤ちゃんを家に置いたままということになれば話は大きく変わってくる。


「お兄さん、生協のお兄さん」

 呼ばれて顔を上げると、赤ちゃんを抱いた山根さんが目の前に立っていた。

「お兄さん、110番してくれない?」

「え、警察を呼ぶんですか」

「だって、赤ちゃんを置いたままお母さんがいなくなっちゃったなんて普通じゃないもの」

「急ぎでちょっと出かけられてるんじゃないですか」

「ちょっとじゃないよ。私たち、そこで一時間以上話をしてるから、太田さんが出かけたとしたらそれより前ってことになるでしょ」

 この寒い中、あんな所で一時間以上も立ち話をしていたのかとあきれたが、もちろん口にはしない。

「お向かいさんは留守ですけど、上の階に用事があったとか」

「今、森さんが電話で聞いてくれてるけどね、どこにもおじゃましてないみたい。それにお兄さん、今日の配達っていつもよりずいぶん早く着いた?」

「いえ、いつも通りです」

「太田さん、そういうのきっちりしてるから、お兄さんが来るとわかってて、こんな風に家を空けてるのはおかしいでしょ」

「たしかに」

「赤ちゃんはベビーベッドの中に置きっぱなし。ストーブはつけっぱなし。台所には半分に切ったトマトとまだ温かい一人分のお味噌汁が入った小鍋があったわ。たぶん太田さんのお昼ご飯ね。それにほら、そこの靴箱の上に生協の注文票が置いてあるじゃない。ついさっきまで、太田さんは普段通りのことをしながらここにいたのよ」

 でも、今はいない。それって――

「何か大変なことが起きたんでしょうか」

「もしかしたらね。そういうことだから、とりあえず110番してちょうだい」

 もう佐竹に拒む理由はなかった。

「わかりました。ちょっとお待ちください」

 佐竹は携帯電話を取り出すと、生まれて初めて110番に電話をかけた。

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