30 波濤
昏い部屋。生臭い空気。血に濡れた手指。
部屋の真ん中。崩れた身体が二つ寄り添うように倒れていた。衣服は裂かれ、皮膚には致命的な傷が幾重にも走っている。顔の判別すら曖昧なほどの損壊。それでも、形として残ったわずかな特徴が、二人が誰であったかを容赦なく告げていた。
「……う、あ……」
喉がひきつり、声とも呼べない音が漏れる。青年の呼吸は浅く速く、胸の内側が焼けるように痛む。理解を拒む思考と、直視を迫る現実が頭の中で絡み合い、逃げ場を潰していく。人狼として覚醒し日。記憶は途切れ途切れで、闇の中を彷徨った断片しか残っていない。だが眼前の光景は、その“欠けていた部分”を容赦なくつなぎ合わせてしまった。
「いやだ……ちがう……オレじゃ……ない、オレじゃ……!」
否定の言葉は壊れたレコードのように繰り返され、意味を失っていく。青年は己の両手を見た。乾きかけた血が指の間にこびりつき、爪の奥にすら残っている。その事実が、脳裏を硬い槌で殴りつけるように響いた。
「やめろ……やめてくれ……返して……返してよ……!」
叫びは次第に言葉の形を崩し、嘆きとも叫喚ともつかない声へと変わる。青年は床を叩き、壁に爪を立て、自分の頭を抱えて左右に振った。まるでこの現実そのものを振り払おうとするかのように。
しかし血の匂いは消えず、死の静寂は動かない。
その沈黙が、残酷な真実を何度も突き刺す。
青年の叫びはやがて嗚咽へと沈み、崩れた家具にもたれかかったまま、激しく震え続けた。自分の手で奪った命を、まだ“父”と“母”と呼ぶ覚悟すら持てないまま。
臆病な人狼は現実を拒絶。
自己の記憶を切り離し、虚像により欺瞞を成す。
存在しない弟を産み、その弟に世界からの敵意を雪がせる。
彼はただ弟を護ればいい。清廉潔白で誇り高く、類稀な高潔さと優しさを持った唯一の肉親として。
―――
―――
〇コマンドポスト
[鯵ヶ沢戒兵長よりコマンドポストへ‼
進行中の討伐作戦を即刻中止し、完全撤退への移行を厳に要請するッ‼
緊急事態につき仔細は省略。ただし、渦津禍津神の地上出現および暴走の可能性が濃厚である点を考慮されたし‼‼]
ブラックボックス化していた劇場内からの緊急通信。
しかし、コマンドポスト内の空気はその最重要報告すらも右耳から左耳に流れてしまうような奇妙な静けさに包まれていた。
「……………」
「……………」
その場の者らが一様に陥った思考認識と現実世界の乖離。偽典魔が展開していた世界を欺く偽現インスタンスが解消し、この世に存在しないアーカス・カッターネオという虚像に対する理解とスティーブ・カッターネオが真の人狼であるという認知が同時に押し寄せる。
「……つまり、なんだ。アーカス・カッターネオの討伐を白紙に戻し、渦津禍津神の対処に注力しろと?」
静稀の声が僅かに上擦る。
「やばいですよ牢長殿‼︎劇場地下から超高濃度の禍神活性反応です。夜見の白昼夢によって空間深度測定を乱されてたせいでここまで近づくまで観測できませんでした‼︎」
小野が狼狽しながらも意識を懸命に奮い起こす。異形の襲来でてんやわんやしていたコマンドポストに別次元の緊張が奔る。
「距離は?あとどれほどでアレが地上に出てくる?」
「とんでもねぇですよ、モニターをご覧に。……もう劇場吹き飛ばして中央棟に向かってます」
痛みを伴うまでに張り詰めた空気。
指揮官である静稀の瞳が光を失う。脳裏で奔流のように思考が巡ることにより、肉体は瞬きすらも拒絶していた。
彼は数秒間、卓上に両手を置き頭を深く垂れた。戦場の煙より澱んだ雰囲気に呑まれた周囲の通信士たちは、その重苦しい1秒の先にある号令を固唾を飲んで待つ。
「本部戦略塔に”
「なっ……そんなことになれば、眞丐地方の形が変わってしまいますよ‼」
小野が心の声を静稀にそのままぶつけた。
「忘れるな。渦津禍津神はカテゴリー5/レートSの確定神格だ。これまで海の底に沈んでただけの存在にそれだけの危険度が示され、それが明らかな脅威として地上の戦場に顕れた。夜見の思惑など知ったことではないが、ここで臣海の杜と渦津禍津神の活動の一切を滅却させねば……それこそ眞丐地方での影響に留まらぬ国の有事だ」
静稀の頭は固定されたように動かなかった。
「さしあたり、私の能力の使用制御の無制限解除を本部戦略塔に求めろ。俺がこの戦場の役に立つかはわからないが、指揮機能はこれより本部戦略塔に移り、役立たずの今の指揮官は用済みとなるはずだ」
彼の覚悟を写すかのように、彼の瞳には涙とは違った潤いと光が差し込んだ。
観芭LAGO2N牢長、静稀譽は金線の入った帽子を手に取り、それを静かに机に置いた。
[その必要はありませんよ]
ただ一言。その言葉がモニター越しにコマンドポストに落ちた刹那、空調音すら消えるほどの極度の集中力がその場の者ら全員の感覚を研ぎ澄まさせた。
通信士たちは固まったまま息を呑み、指揮官だけがゆっくりと振り返る。
モニターに映る“悪魔”の双眸は、明かりのない深淵のようで、彼の決意も、戦火も、戦略室そのものすら、ひとつの計算式として棚上げにする冷徹さがあった。
「相談役……」
[本日も我が図書館の発展のためにご尽力賜り、誠に感謝しております。混沌とした戦場において命を賭して戦われる皆様に対し、このような画面越しでの不躾な発言をお許しください]
LAGO2Nの心臓たる"
[現状を踏まえた各戦略塔への援軍要請。ひいては"大戒厳泄"の要請までも実行されようとしておられましたが、これは図書館として容認できません。理由として端的に申し上げると、その必要がないためです]
「相談役。……必要がないとはどういうことでしょうか。現に禍神は地上に姿を顕し、この戦場で決して無視できない脅威として存在しています。これを無視することはもちろん、生半可な対処が許されるとは到底考えられません」
[お気持ちはごもっともです。また、通常時であれば禍神の地上出現に対する静稀牢長の判断は適切で、何一つ誹られる謂れはないということも明言させていただきます。その上で、ライブラリの統一見解として今回に限ってはその緊急的対応の必要性がないということをお伝えしております。
何故ならば、当初の想定通り渦津禍津神は特段の対処をせずとも制圧できます。これは確定事項であるため、明確な意思を持って地上に姿を顕したからといって、この国全ての戦略塔を動員してまで対抗する必要はありません。
強いて言えば、この観芭ラグーンには相応の痛手はあるでしょう。ですが、渦津禍津神がこの討伐作戦の完了時において、無辜の民に対して残虐非道な行いをするところまでは行きません。ので、対狼の皆様には対狼の皆様なりのベストを尽くし、引き続き人狼討伐に専念していただければと思います]
「……その当初の見解に従って討伐作戦に踏み切ったこと自体がこの現状を招いているのではないのでしょうか⁉半端な情報により命を危険に晒しているのは現場の戒兵たちなのですよ‼彼らにどうやって援軍もなしに禍神に立ち向かい続けろと言えるのでしょうか⁉」
[お気持ちはごもっとも。静稀牢長の判断は正しいです。が、繰り返しますが今回は特別な対応は不要です。今優先すべきは目の前の事象に丁寧に向き合うこと。
……全てを語るには私は不自由な身ですから、断片的な情報しかお伝え出来ないのはこちらとしても忸怩たる思いです。それに、分かっていても変えられないものも子の世界にはあるのです。因果であったり、運命であったり……]
静稀は言葉を押し殺したように貌を歪め、一度机に置いた帽子を再び深々と被る。
「……承知しました。お前たち、聞いた通りだ。先程の私の命令は白紙に戻せ。現場に対しては適切にモニタリングし、ドローン部隊を含めた積極的な掌握と事態の
収束に注力する。
鯵ヶ沢戒兵長からの緊急通達は無視する。作戦は止めず、一歩も退くことは無い」
―――
―――
―――
〇儀謁館
激しくぶつかる剣と爪。
衝突により軌道が逸れたスティーブ・カッターネオの握るカッツバルゲルが黒い靄に覆われた偽典魔の腕を僅かに傷つけた。
偽典魔は苛立っていた。
ここ一番における自分の行動が全て裏目に出ている。
自らの命を脅かす渦津禍津神に対し、身代わりとなる人狼を指し向けるために
身代わりとして活用したかった不死腐狼だって予定通り、討伐隊の急先鋒として何も知らずにまんまと禍神の根城に飛び込んできた。いの一番に不死腐狼と接敵し、人間であれば死を免れないような致命傷を甘んじて受け、自分は禍神の用事が済むまで戦場の片隅で死を擬態していればよかったのだ。
だが、想定外の事態が生じた。
一つ、自らが偽りの表人格として形成していたスティーブ・カッターネオが偽典魔が考える以上に渦津禍津神を信仰してしまっていたこと。
偽典魔は渦津禍津神の攪拌の力が信者のみに作用する能力であることを早い段階で感知していた。そこで臣海の杜での円滑な生活と保身のために表人格を犠牲にして渦津禍津神を表層的に信仰することで、スティーブ・カッターネオを免衝装置として利用し、魂的本体である偽典魔にまで精神汚染が及ぶことを防いでいた。
討伐隊の包囲を受けて信者たちに一斉に"闘志攪拌"が図られた際、スティーブ・カッターネオは弟を護る設定を遵守し、心の底から渦津禍津神を信仰し、加護を享受した。その際に受けた渦津禍津神の干渉力が偽典魔の想定を大きく上回ってしまったことにより、スティーブ・カッターネオという存在のコントロール能力が失われてしまったのだ。
東棟でドローン爆撃によって表層肉体が仮死状態にある状態で藺草陽子が発破をかけたことにより、いよいよスティーブと偽典魔の存在核が本格的に乖離し、本来であれば作られただけの仮想感情が自我を持って活動を始めたのだ。
いや、単純に感情が存在として乖離するだけならいい。
剰え、生身の人間であれば死を免れないような致命傷を渦津禍津神経由で供給された飽和エネルギーで繕って、五体満足の肉体まで獲得した。
身から出た錆とはいえ、まさか自分が生み出した設定が己に対して牙を剥くことになるとは、偽典魔にとって想定外中の想定外だった。
「――――けるな」
黒靄の人狼が、偽典魔の血だまりの床を転げ、喉奥からせり上がる憎悪をその大きな口から零し出す。
「ふざけるなァ‼‼俺が一体何をしたってんだよ‼
俺はただ、生きたいと願ってるだけだ‼
テメェらなんかわざわざ絡んでこなければ指一つ触れやしねぇのに、勝手に擦り寄よって殺し合いを強制させやがる。お前らに俺の命を奪う権利があるのか‼」
そこで偽典魔の喉元に片手剣の刃が滑り込んで来る。渦津禍津神の攪拌により力を与えられたスティーブの今の機動力は韋駄天に迫る水準に達しており、人狼の肉体を持ってしても彼の攻撃を安易に受けては命が脅かされる。
偽典魔はスティーブに掴みかかり、流れるように首筋に食らいつくも驚異的な反射によって丸盾を構えられることで攻撃が防がれてしまう。攻撃と防御のバランスに優れ、今の力関係でいえば偽典魔はほぼ狩られる側の獲物に成り下がっている。
「ア゛ー゛か゛ス゛を゛か゛エ゛せ゛‼‼」
「別に取り上げちゃいねぇさ。そんな奴が
「お゛ま゛エ゛か゛‼み゛ン゛な゛を゛‼‼か゛そ゛く゛を゛‼‼
う゛は゛っ゛た゛ン゛た゛ロ゛う゛⁉⁉」
燕返しの一閃が偽典魔の肩の辺りを軽く割く。帰りの大振りの爪撃をスティーブは盾で防ぎきる。
「我が身のことながら憐れなもんだ。お前の両親を殺したのは俺だ。そして俺はお前だ。スティーブ・カッターネオは人狼であり、人狼の巡り:6番"偽典魔"はスティーブ・カッターネオだ‼
設定ごときが自我を持ったのなら思い出してみろッ‼テメェが殺した親と、その罪を被せるための虚構の弟の貌をよォ‼‼
全部全部。俺が、お前が、俺とお前がやったことなんだよ‼お前は俺だァ‼‼」
揉み合いになりながら血濡れの儀謁館を駆け巡る。周囲は彼らの存在の有無にかかわらず、波濤の混乱の中に在る。渦津禍津神が化蛸の宍を動かし、儀謁館に侵入。大妖怪の圧倒的スケールと存在感、そして攻撃意思による触手の激動で中央棟自体が破壊されかけている。
「ち゛か゛う…ち゛がう。お゛れは……ステぃーぶ。スティーブ・カッターネオ。
臣海の杜の幹部。アーカスの兄として……両親を殺した怪物から弟を護り……そしていつの日か、犯人である怪物をつるし上げるために……ここにいるんだ‼」
充血しきったスティーブの瞳から、一筋の涙が頬を伝っていく。
「だったらその首自ら掻っ切れば復讐成功だぜ。ついでに弟に迫る不気味な人狼の影まで消えるだろうよ。これまでのお前は偽典魔が保身のために動かしてた人形。今じゃあ渦津禍津神に絡め取られて操られるただの傀儡だ。いつまでも覚めない夢の余韻に浸りてぇなら、望み通りどびっきりの悪夢を見せてやるよ‼」
「
霧のような気配が広間に満ちた瞬間、人狼が吠えるように能力名を吐き捨てた。
これは"呼び出し"と呼ばれる行為であり、魔術師の呪文詠唱のように、事前に定義や宣言された能力を明示的に指定することで、その効力をより明確かつ強力に発揮させることができる。
その声と同時に、空気がねじれ、周囲の視界がひび割れる。割れ目から滲み出るように、アーカス・カッターネオと同じ顔をした“存在しない人間”たちが次々と形を結び、無音のまま立ち尽くす。
圧し掛かるような催眠の圧力に、現実の輪郭すら曖昧なスティーブに怒りと哀しみが押し寄せてきた。
「…ッ…⁉」
「禍神の支配下にあるテメェは俺をあのタコに捧げたいんだろうが、そうやすやすとやられてたまるかよ。テメェの設定は俺が作った。ならその壊し方も分かるぜ。既に因果干渉によって悪魔の下僕には偽典魔=スティーブ・カッターネオの認識を波及させた。ここでお前を足止めし、俺があのタコの手が届かねぇところまで逃げ切れれば俺の勝ちだ‼」
「「「兄さん……僕……怖いよ」」」
ゾンビ、或いは亡霊のように無数のアーカスがスティーブに擦り寄る。
スティーブの記憶の中にある、記憶にない兄弟の思い出が脳裏を巡る。
「……俺は……人狼じゃない」
「死ぬまで聖人を着飾って擦り倒してろ、意志のねぇ人形にはお似合いだぜ」
「意思なら、あるさ」
「あ…?」
刹那、スティーブは周囲を埋め尽くすような化蛸の触手の山を逆に足場として蹴り抜け、空中を連続で跳ねるに加速する。爆発的な静からの動への切り替えに対し偽典魔は虚を突かれ反応しきれず、逃走の間隙を奪われる。青年は最後の触手を踏み裂き、矢のごとく突進。銀刃がぶれずに突き出され、人狼の胸を貫いた。
「…俺は、俺の正義のため人狼を倒す。家族の弔いと…より多くの人の幸福の為に」
「あ゛っ…⁉」
偽典魔の動きが急激に鈍る。不死腐狼と違い、いくら人狼の屈強な肉体とタフネスがあったとて、心臓を穿たれては流石の偽典魔もこれ以上戦うことは不可能だった。
瀕死に陥った偽典魔に対し、周囲の化蛸は過敏に反応。これまでは直接的には延びてこなかった触手が、ここにきって途轍もない勢いでスティーブと偽典魔を蔽い盡した。
「しま…った」
――――
――――
――――
何かが自分を呼ぶ声が聞こえる。
芦屋邇都の心に沁み込んで来る汚泥のような感情。
滝のオブジェクトに楔のように三叉槍によって打ち付けられていた人狼の体躯は、儀謁館に登場した化蛸の巨大な腕に抱かれ、儀謁館の中央で渦巻くような怪物の手籠めにされてしまっていた。
――
これはまずい。何度も何度も心が危機を訴える。
吸盤に埋め尽くされた触手の壁がラテアートのように渦を巻き、不気味な螺旋の中に取り込まれたかと思えば、いつしかそこは不気味な宗教施設とは打って変わった謎の空間へと変化していた。
どこまでも果てしなく広がる灰色の空間。
それいで、少し先に手を伸ばすことも躊躇われる圧倒的な閉塞感。
見えている景色は景色ですらなく、あるはずの奥行もきっと存在しない架空の亜空。
まるで深くて暗い海の底に在るかのような。物言えぬ寂しさが心に沁みる。
それでいて頭の中は大きく渦巻く感情の奔流に苛まれている。渦津禍津神を信仰しているわけでもないのに、渦津禍津神が支配している多くの信者たちと魂が共有され、本来であれば単一の思考が様々な声によりかき消されてしまう。
渦津禍津神は信者でなければ攪拌の力を使うことはできない。
今、彼女が様々な感情と交じり合っているのは、彼女自身が渦津禍津神になりつつあるから。
彼女自身がその兆候を感じ取った時、既に精神は禍神からの神懸りが果たされつつあった。
禍神の魂は極めて友好的に、それいで加虐的に彼女に溶け込んでいった。
うなじに大樹の根が張るような感覚が拡がっていく。
抵抗しようにも、もはや彼女に出来ることは何一つない。
芦屋邇都という存在が"器"としての肉体をそのままに中身がそっくりそのまま渦津禍津神の魂によって上書きされる瞬間がもう間もなくと迫っていた。
―――
自分が何者であるか忘れかけていた邇都の瞳に光が灯る。
空虚な灰色の空間に黄色い光が差し込んだ。
その光は言葉なくして彼女に大いなるメッセージを訴えてくる。
今のままではまずい、踏みとどまれ。と。
或いは、試されている気がした。
その黄色信号を目にした上で、果たしてそのまま進むのか、それとも自らの意思で引き返すのか。
彼女は与えられた選択肢と権利に心の底から歓喜し、このまま負けるわけにはいかないと己を奮い立たせた。
―――
―――
―――
〇儀謁館
「貴方も立派な方ですねぇ」
ぬめる化蛸の頭に立つ夜見。
化蛸の巨体が乾燥しないように常に雨を降らせ続け、一貫して自らは戦闘に参加せずに傍観に徹している彼からすれば、全身に壮絶な傷を負いながらも、己の部下の為に命を賭して戦線に立ち続ける鯵ヶ沢梅雨喜の姿はどこまでもドラマチックに映った。
深海から地表の岩盤層を撃ち砕いて劇場に化蛸が到達した際、その轟音と衝撃の最中、梅雨喜はなんとかして化蛸をその場に留めようと全身全霊を尽くして抵抗した。しかし、そのあまりに巨大な怪物対して彼の持つコンバットナイフは頼りなく、懸命な抗戦の末に残存していた異形に取り囲まれ、突き立てられた無数の凶刃により身体の至る所を斬り裂かれた。
失血死やショック死などの死因が差し迫る中、梅雨喜はそれでも劇場から中央棟まで進行する化蛸に食らいついた。
触手のうねりに轢き潰された無数の屍を踏み越え、彼は不撓不屈の魂で化蛸の懐へと迫っていく。その道すがらで骸の中に埋もれた何者かの青龍刀をキャッチアップできたことは幸いだった。
己を鼓舞するための裂帛の叫びは雨音に搔き消され、渦巻く触手の裡側へと斬り込んでいく彼の姿もまた宍の壁に呑まれていく。
絶賛取り込み中の渦津禍津神はこれを大いに拒絶。弾力とぬめりにより斬撃の勢いが悉く減衰する中、梅雨喜は僅かに空いた背後の隙間から自身に青信号を照射し、限界を超えた身体能力で突破を試みる。
一心不乱に斬り。斬って、裂いて、蹴って。堪えがたい手の痛みは痺れを帯び、濡れた躰は温もりを失っている。それでも、ここで手を止めるわけにはいかなかった。
何としてでも夜見の目論見を阻止する。渦津禍津神の神懸りを防ぎ、依代である部下の命を護りきる。幾重にも重なった彼の動機が正義の炎となり、昏倒しそうな満身創痍の中でもどこまでも彼の身体を動かし続けた。
「新入りとはいえ、そいつは俺の部下だ……‼
おい、芦屋邇都ォ‼勝手に憑りつかれるなんざ許可しないぞ、さっさと戻って俺と一緒に最期まで戦え‼‼‼‼」
斬り拓いた触手の海の果て。その身を三叉槍で穿たれたまま、バカでかい怪物の瞳に覗き込まれた部下の姿を発見。状況の説明を要せずして、それが今まさに渦津禍津神が不死腐狼の肉体を手に入れるべくして、憑依を実行していることがわかった。
刹那の判断で梅雨喜は能力により黄色信号を発現させる。その光をぶち込む対象は怪物の方ではなく、今まさに神懸りの瀬戸際にある部下の貌へだった。
空気が揺らぐ。
強い抵抗力を感じる。
それが渦津禍津神によるものか、芦屋邇都によるものか。
一つ確かなことは、その空気の揺らぎの中に僅かに混じる独特な殺意のオーラ。
それは己の正義の燃ゆる部下が発していたかつてのプレッシャーそのものだった。
「――心から感謝します。戒兵長、今まで生意気な口を利いてすみませんでした」
「芦屋‼」
白目を剥いていた不死腐狼の瞳が、黄色信号の光を照り返して強く輝く。怪物は眼を丸くして幾重もの触手で不死腐狼の両手両足を締め上げたが、梅雨喜はその束縛を不死腐狼の肉体ごと斬り裂いた。
身体が再生するや否や、邇都は梅雨喜の身体を抱えて触手の壁を突破。
儀謁館の壁を駆け抜け、瓦解したドームの通用口まで退却した。
これまで放出され続けたアドレナリンが途切れたのか、梅雨喜は糸が切れたように体に力が入らなくなった。
「…芦屋、さっきはああいったが、ここから今すぐ逃げろ。渦津禍津神は人狼に憑依し、受肉することが目的だ。お前が逃げ切れば……少なくとも不死腐狼の身体を持つ禍神なんてものは誕生しない」
「なんて怪我してんですか、戒兵長。私も逃げますが、戒兵長も無事に逃がしますよ」
「いや…俺はまだ戦う。異形や化蛸を仕留めなければいけない」
「なんて
邇都と梅雨喜の傍らに化蛸の触手の一端を携えた源唐塘がどこからか合流した。
「…モロさん」
「異形は全部俺と俺の班員が仕留めた。撤退命令がない以上は俺はこれからあのタコの相手をしなくちゃならんが、お前はその傷じゃあ三十秒も持たんだろうよ。長生きしたけりゃ黙って撤退するんだな。…いや、別に殿をしようってんじゃあないけどな」
源の態度は冷ややかでどこかこの状況を達観しているようだった。彼は手にした化蛸の切れ端を躊躇いなく口に運び、大胆にも大妖怪を一端を咀嚼し始めた。
すると徐に腰に佩いた骨董品のような刀を取り外し、それを梅雨喜が力なく握っていた青龍刀を取り換えた。
「うーん。こっちの方がマシか。俺の愛しい刀を蛸の刺身のために使うのは忍びない。アジ、お前が責任もって持って帰れよ」
源は渋々致し方なしといった表情で青龍刀をふわりと構えた。これより対峙する相手の強大さを憂いてか、その次の足取りはどうにも重々しかった。
「これはこれは、かの高名な"観芭の鬼蜻蛉"。貴方までいらっしゃっていましたか。いみじくも貴方が劇場に顕れていたとしたら、この結末は少し変わっていたかもしれませんね」
ずぶ濡れのスーツ姿で三名の前に顕れた夜見。高級感のある革靴は化蛸の粘液で糸を曳き、朧げな足取りで拍手を交えながら近寄ってくる様はいつにもまして不気味さを演出していた。
「夜見一弥だな。助かったぜ、せめてテメェの首を土産に持って帰れそうだ」
「えぇえぇ。私はどちらでも良いですよ。逮捕でも、殺害でも、お好きなように」
「あン?」
夜見は満面の笑みを浮かべ、わざとらしく両手首をぴったりとくっつけてそれを貌の前に持ち上げた。そこに攻撃の意思はなく、ただひたらすらに満足げに笑んでいるばかりだ。
そこで邇都は儀謁館の異変を察知する。これまでその圧倒的なスケールによる存在感を示していた化蛸がここにきて勢いを失ったように縮こまり、中央棟を後にしようと動き出している。それはまるで、何かに怯える小動物のような"焦り"の様を感じさせた。
「えぇえぇ。そうです。鯵ヶ沢氏には先程申しあげましたが、我々の目的は渦御神の神懸り。――それは既に達成されました」
「…クソっ」
「そちらのお嬢さん。良明湊の一件ではどうも。やはり流石のツワモノでございますね。その力はあの韋駄天すらも屠り捨て、剰え渦御神の憑依を中途で跳ね除ける程とは改めて恐れ入りました。
それに運も実力の内というべきか。因果に干渉する偽典魔によるスケープゴートでありながら、押し寄せる運命に抗って生存を勝ち取ってみせた。これは本当にとても素晴らしいことです。貴方は勝利し、敗北した偽典魔は晴れて渦御神の新たな
―――
――
―
儀謁館を満たしていた喧騒が糸を切られたように静まり返った。
人狼の肉体を依代に禍神がゆっくりと首をもたげる。
骨格はきしみ、筋肉は不自然な方向へ膨張し、皮膚の下で黒い何かが脈動していた。一定見慣れたはずのスティーブ・カッターネオの貌。しかし、赤黒い光を帯びた眼孔がゆらりと開き、そこに宿った何かはこれまでの青年とは一線を画した別のモノであるということを雄弁に訴えかけてきた。
空気が沈む。怪我の状態など関係なく、梅雨喜は息を吸うだけで肺が押し潰されるような圧を感じ取る。それはもはや生物が発して良い密度のオーラではなかった。
この激しい戦場を生き延びた戒兵たちでさえ、銃口を向けることすらないままに全身が固まり、誰ひとりとして指一本動かせない。中には失神する者や失禁するものもいる始末だ。
「……静かだな」
禍神は喉の奥からひび割れた声を漏らした。 スティーブのものであり、スティーブのものでない神の宍声。金属の摩擦と深海のうねりが混ざり合ったような、二重三重の響きを帯びていた。
「まったく。変に分離しやがって、急いで混ぜたから型落ちしちまったよ。…でもまぁ、いいか。それでも及第点以上、完璧でなければ完璧を目指せばいい。そうだよな?夜見」
「仰る通りにございます。渦御神様。ようこそ晴れて地上へおいでくださりました」
「全部お前のお陰だよ。感謝してもしきれない。……ぁあ。そうだ」
スティーブもとい、渦津禍津神が夜見に歩み寄る。即ち、それは対狼代表者3名の元に歩み寄ることだった。
「お騒がせしたな、悪魔の下僕の諸君。我こそは渦津禍津神。ここ最近は君らに迷惑かけたけど、別に悪気があったわけじゃねぇから。それと、夜見も殺すなよ?夜見を殺したら俺は君たちを殺すよ」
「渦津禍津神……」
梅雨喜が身崩れした姿勢から蠢動しながらも懸命に禍神に対峙しようとする。
「何?」
「お前はこれから…何をするつもりだ。…人類を、文化を、世界を滅ぼすのか⁉」
「いや。投降するけど。……ン?だって君たち人狼を捕まえにきたんだろ?」
「…え……?」
「いや、何?嫌なの。…こっちはこっちでリスペクトしてんだぜ、君らのこと。可哀そうだし、監獄塔ってところでしばらく暮らしてあげるよ」
「な、なにが目的だ!!?これだけのことをしでかしておいて、自首のような真似をするなんて……」
「うるさいな。嫌ならここで
そこで夜見もまた笑顔で相槌を打った。
「あ、私も投降しますからね」
「は…?」
「この世界に耽るたびに思う。どうして人の想像力と創造欲というものは斯くも残酷で、何者をも彩らなければ堪えがたいのだろうか。欲しがるのは当然。それが生きる根源。綺麗事はナンセンス。人狼ゲームは手段。生き残った者が勝者。それがルール。
我はちゃんとした
禍神の表情が徐々に怒りと失望の色に染まっていく。障らぬ神に祟りなしとはいうものの、梅雨喜は今もなお禍神の腹の裡が読めずに困惑の境地に達していた。
「そっちのお嬢さんなら気持ちわかってくれるよな?ただ自分がこの世界に存在するためだけに願うこともあるってよ。さっきは身体取ろうとして悪かったね。どっちでもよかったけど、そっちもなかなか悪くないなと思ったぜ」
「あー……。どうも?」
妙にフランクで間の抜けたような発言と、常在的に醸し出す異質なオーラのギャップに皆が呆気に取られている中、この絶妙な空気を打ち破る号令が儀謁館に響いた。
「LAGO2Nはこれにて渦津禍津神からの投降を受理し、臣海の杜討伐に係る全ての作戦を完了と宣言する。残存する戒兵は各自の職責を全うし、撤退及び事後処理へと速やかに移行せよ‼‼」
それはこの討伐作戦の指揮を執る観芭LAGO2N牢長の静稀譽から発せられたものであった。
儀謁館の奥底には激戦の残響がまだ空気の奥にこびりついている。
崩れた柱、焦げた壁、足元には雨水と血が混じり合い、まだ戦場の臭気が漂っている。誰もが全身を泥と血で汚し、額から流れる汗も雨に溶けて判別がつかない。
再び、静寂が満ちる。
戒兵たちは顔を見合わせ、次いで静稀に向き直った。
静稀は指揮官は息を大きく吸い込み、胸の奥に残った不安や恐怖を吐き出すつもりで全力で号令をかけた。
「作戦完了ッ!!聞こえなかったかッ‼
投降者の確保に並行して生存確認と負傷者の搬送に移れ‼
遅れるな!!ここからが締めだ、動けッ!!」
かくして、臣海の杜討伐作戦は歪な終幕を迎えた。
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