23 敬虔
○臣海の杜眞丐本部_敷地内の劇場
―――
芦屋邇都による韋駄天打破の少し前。
―――
劇場の空気は、異様なほど冷たく静かだった。
外ではすでに銃声が響き、遠くで破砕音や風に混じった怒号が断続的に聞こえる。それなのに、この空間だけは時が止まったように静まり返っている。
木の匂いが濃い。重厚な扉、観客席、手すり、床、多くのものが木製であった。長年の湿気と油が染みついて鈍く光るものもある。天井の梁は低く、そこかしこに設置されたランプが弱々しく揺れている。その灯りに照らされ、赤褐色の板がまるで血を吸ったように暗く沈んで見えた。
舞台の中央には、黒塗りのグランドピアノ。その前に、男がひとり腰掛けている。黒のスーツに白いシャツ。ネクタイを緩めもせず、姿勢を正したまま、鍵盤の上に両手を置いていた。指は動かない。弾くでもなく、ただそこに置かれている。
臣海の杜総務顧問。現体制の臣海の杜の指導者にさて、今回の臣海の杜討伐において、
彼の視線はピアノの奥、客席の暗闇に向いていた。そこから、ゆっくりと足音が響く。戒兵指定のブーツが床板を叩く乾いた音が、劇場の静寂に吸い込まれる。やがて照明の境目を越え、一人の男が現れた。灰色のコートに軍靴、腰には実弾装填の拳銃。
対狼最高戦力。
木造の壁がわずかに軋む。音が大きく聞こえるほど、空気が張り詰めていた。梅雨喜の背後では、埃の粒が光を帯びてゆっくりと落ちていく。まるで、空間そのものが息を潜めているかのようだった。
「おいでになりましたか。
”レッドオークの信号鬼”。貴方がこの場に現れるとは」
「意外だったか?」
「いいえ。貴方が現れることを強く望んでいました。つまり、私にとっては好ましいシチュエーションです」
梅雨喜は腰に下げていた銃に手を伸ばす。
彼が取り出したのはコンパクトなセミオート。マットな黒のスライドは汗も指紋も反射させない。
「部下が命懸けで戦ってる中で長々とお喋りはしたくない。投降しろ、夜見一弥」
「現状ではその要求は叶いません。今後の展望次第では投降致しますが、まだそのタイミングではないと申しましょうか」
「今、その場で手を挙げ、床に伏せろ。これは要求ではなく命令だ。3秒以内に動きがなければ、即制圧する」
「できれば、の話ですが」
梅雨喜の背後で、空気がわずかに湿った。
最初は劇場に入り込む風の流れが変わっただけだと思った。だが、靴底から伝わる「ぬるり」とした冷たさに、背筋が凍りつく。振り向くよりも先に、地面を覆う影が膨れ上がった。
闇の中から伸びてきたのは、金属光沢を帯びた巨大な触手。一本で新幹線車両ほどの太さを誇り、表面には無数の吸盤が規則正しく並んでいた。その吸盤の一つひとつが、人間の頭ほどの大きさで、粘液が滴り、照明の淡い光を受けてどす黒く光る。
彼は反射的に銃口を向けたが、その動きよりも早く、ぬめる巨腕が蛇のように絡みついた。
「ぐっ……!」
足首を掴まれた瞬間、骨が軋み、体が宙に浮く。足から腰へ、背へ。冷たく粘つく感触が這い上がってくる。
遠心力により視界がレッドアウト。
意識が薄れかけたところで、梅雨嬉の体が劇場の壁に叩きつけられ、激痛により意識が回帰する。
「お忙しいところ恐縮ですが、私の時間稼ぎに暫しお付き合いのほど願います。
“
劇場の天井が、まるで薄膜の空を裂かれたように波打った。照明が瞬き、音もなく降り始めたのは現実には存在し得ない架空の雨。
仮想の雫が指先をすり抜け、時には肌に溜まる。幻想と現実の境界が溶けていく。劇場全体を舞台とする雨の帳に彼らは包まれた。
(事前情報なし。夜見は俺と同じ、
……相談役は禍神が直接反撃してくることはないと言っていたが、これは反撃には入らないってか?あの悪魔、適当なこと抜かしやがって)
「時に、鯵ヶ沢氏はピアノはお弾きになりますか?」
夜見の問いかけを機に、壁にめり込んだ彼の周囲に無数の信号機が出現し、灯し出された翠緑の光を浴びながら梅雨喜は這い出てきた。
「生憎、極貧家庭で育ったもんで、そんな高尚なモンには触ったこともねぇよ」
「左様ですか。私も似たようなものです。スラム、と呼ぶには大袈裟かもしれませんが、貧困に窮する過去の記憶はなかなか色褪せません。
この立派なグランドピアノを用いた一流奏者の旋律も、私には聞き心地の良い単なる音の連なりとしか感じ取れない。ですが、これが在るのと無いのとでは、この劇場の持つ品格のようなものに差が生まれるのです。これが不思議なもので、私がそれに価値を見出すがどうかはさておき、一度置いてしまった高価なものというのは中々に手放し難いものです」
「知らねぇよ。そのお喋りに何の意味があるんだ」
「意味はさほどありません。強いて言えば、時間稼ぎでしょうか」
梅雨喜の踏み込み。人間離れした跳躍により一足飛びで夜見との距離を詰め、どこから取り出したともわからないコンバットナイフを逆手から振り下ろす。雨雫を散らしながら刃が宙を滑り、身を躱した夜見の姿勢が深く沈んだ。
刹那、再び巨大な触手の強襲。圧倒的な物質量を誇る化蛸の巨大な触手が木製の観客席を薙ぎ払いながら梅雨喜に迫る。視覚の以外から梅雨喜の姿を補足しているのか、太い触手の中間地点で彼の退路を断ちながら、先端は繊細に躍動して彼に飛び掛かってきた。
「
梅雨喜の背後に一柱の信号機が顕現。赫赫たる呪洸放射により、触手に対して移動禁止の概念を付与する拘束の呪いをかける。しかし、この力は相手が近代社会の信号機の概念を理解していることを前提とした催眠効果に近いため、"赤信号"の存在を知悉しているとは言い難い化蛸には無効だった。
代わりに、赤色唐土の付随効果である光の放射対象への防御特性解除は有効だった。触手に対して突き立てたコンバットナイフは頼りなかったが、赤色の光に照らされた肉の塊は斬撃を大袈裟に受け取り、刃渡りからは想像もつかぬ深い切傷を刻んだ。
「
新たに顕現した三柱の信号機がそれぞれ緑色の光を梅雨喜に向ける。光の効果で身体能力と動体視力が底上げされた彼は手早く周囲の肉塊を斬り裂きながら触手による包囲を抜け、ついでに粉塵と雨にまみれた劇場内から夜見の姿を探す。
この攻防の間に既に姿を眩ませているものだと思った夜見は意外にも劇場の観客席の一つに腰を掛けて化蛸と梅雨喜の大立ち回りを観覧していた。劇場内を満たす雨粒によりその表情までは読み解けなかったが、少なくとも慢心や煽動のために余裕をかましているわけでもなさそうだった。
梅雨喜は信号機の固有能力を駆使して化蛸の肉を積極的に斬り裂き、舞台から飛び降りた。その間にも触手は圧巻の存在感を放ちながら巻き上がり、舞台を捲りはがしながら梅雨喜を再び取り囲んだ。赤信号力で拘束することができない触手だが、逆に青信号でのバフもかからないのは梅雨喜にとっては好都合で、常に自分の周囲に青信号の強化効果を展開し続けることができた。
この力は連鎖して効果を掛けることで重複が可能なため、数度に渡り三方向から青信号を浴びた梅雨喜は既に化蛸の猛攻を完全に捌くことができる身体領域に到達していた。
「不調法なお方だ。…器とはいえ、渦御神の御体を斬り刻まれるのを目にするのは心が痛みます」
幾度も肉を裂かれて動勢を失った触手の断片を見やり、夜見がしおらしく肩をすくめた。
「投降する気になっただろうか」
「いいえ。まだその気にはなりません」
「じゃあお喋りするか。時間稼ぎとやらのために」
「ええ。構いませんよ。私も別に貴方と本気で戦いたくはありません。私はそもそも貴方には勝てませんし、同じく貴方も私を実力行使で捕えることはできないわけですから」
「………」
「さぁ、私に聞きたいことがたくさんあるのではありませんか?」
梅雨喜はナイフを床に捨てた。
すると、暴れ狂っていた触手がその動きを止める。
「臣海の杜の目的。
なぜ、人狼の巡りに関与し、アーカス・カッターネオを庇護する?
お前たちに。お前に、一体なんのメリットがある?」
夜見が目を瞑って上向いた。
それを合図に彼が展開していた雨を降らせる能力が収束し、劇場内に冷やかな静けさが戻ってきた。
「まず、私の望みは"渦津禍津神"の望みです。敬虔な信者でありますから、私の幸福は渦御神の本懐成就を意味します。即ち、私の思想、行動、目的は神が望まれることの代行を担っているに過ぎません。人狼の巡りへの関与、及びカッターネオ兄弟への手厚いサポート、或いは投資は神が望まれていることです」
(渦津禍津神が人狼を欲しがっている…?)
「そして、もう一つ。
貴方がたが血相を変えて奪いに来ているアーカス・カッターネオですが……。
彼は人狼ではありません」
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