臣海の杜 編
2章 動き出す獣たち
09 看守長 埠頭を駆ける
〇眞丐市中央区_
夜の埠頭は、黒々とした海と鈍色の鉄骨に囲まれ、潮の匂いと油の臭気が混ざり合っていた。濡れたアスファルトに街灯の光が点々と反射し、追跡者の足音が乾いた銃声のように響く。
その先を駆けるのは、"
背筋をしならせ、風を切り裂くように疾走する姿は、人の限界を嘲るような速度で、視界から消え入りそうになる。倉庫の影をすり抜け、鉄製のコンテナの隙間を縫うたび、黒い影が三つも四つも増えては消える。追う側は呼吸を荒げ、肺を焼くような息苦しさの中で、ただその背中を見失うまいと必死に地を蹴った。
足裏に伝わる衝撃が、やがて痛みに変わっても、耳を打つのは遠ざかる靴音と逃亡者が身に纏った鈴飾りの暴れ音ばかり。
夜風が頬を裂き、血の味が喉を伝う。それでも埠頭の先、光の果てを走るあの男は、振り返りすらしない。ただ速さのみが存在理由であるかのように、闇の中を切り裂いていくのだった。
(韋駄天……。超能力者の通名はまさしく名は体を表す、だな。イカレた速度に反射神経。自分の動きを制御するだけのバランス感覚と体勢のコントロール。真似できる部分は見習わないといけないな…)
鯵ヶ沢梅雨喜看守長。
今日も今日とて彼は奔走していた。
日本の五大港に数えられる良明湊。海外貿易の要衝として古くから発展していた眞丐地方においても、特大規模な貿易港として莫大な量のヒト・モノ・カネを動かす拠点として名を馳せていた。
そして、今宵のコンテナターミナルはすっかりと静けさを失っていた。規則正しく積み上げられたコンテナ群が巨大な壁となり、狭間を彼らが抜けるたびに足音と金属音が轟く。その響きはまるでこの場所全体が共鳴しているかのようで、二人の走りを際立たせていた。
先頭を駆ける韋駄天は、影を裂くような疾走でコンテナの谷間を切り抜ける。追う者である梅雨喜ばかりが汗に濡れ、息を荒げながらも決して距離を諦めようとしない。赤錆びた鉄骨、夜灯に照らされた鉄板の壁、そのすべてが追跡劇の舞台装置のように、彼らをのみ込んでいく。海運の要所、広大なターミナルに鳴り響くのは、風の唸りと、二人の足音だけだった。
―――
―――
〇良明湊_ガントリークレーン_巻上電動機上
「……ったく。なァにが楽しくてこんな潮臭い所で上司の追いかけっこを眺めてなきゃならないんですか。こんなことしてる間に人狼が眞丐で好き勝手してると思うと、なんだか私の正義が怒りを訴えてます」
「まぁまぁニトちゃん。これも大事な仕事なんだよ?人狼討伐は大がかりな一大イベントだから、まずは足場からしっかりと固めていかないといけなんだ」
潮風に髪を靡かせ、不服を隠せぬ顔色を曝け出す芦屋邇都一等戒兵。
そんな彼女を宥めるのは、同じくラグーン所属の一等戒兵。戦略塔偵察部所属、
「あの逃げてる奴。なんでしたっけ……えぇと、韋駄天?……確かにスピードは大したもんですけど、逃げまわるチキン野郎の討伐なんて優先度低いでしょうに」
「あはは。確かに逃げ足が有名な彼だけどその実、眞丐府じゃあ結構名の売れたスピードスターさ。通称"韋駄天"。
邇都が徐にガムを口に運ぶ。
「そんな小物を看守長サマがわざわざ出向いて討伐ですか。ラグーンって人員持余してるんですか?」
「ニトちゃんさ。今自分が何の作戦に参加してるのかちゃんと把握しておいたほうがいいよ」
「私、人狼討伐以外はあんまり耳に入っても残らないタイプというか。……え、韋駄天を討伐しにきたんじゃないんですか?」
「ウン。今回はヘッドハンティングだね。金で懐柔するなりして韋駄天をラグーン陣営に引っ張り込む。そんで、人狼討伐のチームに迎え入れようってスタンスさ」
邇都はきょとんとしながらガムを暫く咀嚼していた。
「……あんな逃げ回ってるだけの小物にそんな価値が?」
「ああ。韋駄天は"人狼より速い"。これは味方になった時、とても大きな武器になる」
「……へぇ」
邇都の周囲の空気が僅かに揺らいだ。
―――
―――
―――
足音の反響。加えて、韋駄天の脚首に巻かれた鈴飾りが奏でる歪な旋律。
脚運びも姿勢制御もフリーランニングやパルクールの次元を一つ飛び越えたレベルにある。
生身の人間とボイジャーの間で生じる圧倒的なフィジカルの差。それを埋めるには、必然的に梅雨喜も己の持つ武器を行使するより他にない。
「
闇に沈んだコンテナ群の狭間に、突如として人工的な光が浮かび上がった。
鉄の支柱と三色のランプが虚空から生え出すように現れ、まるで都市の交差点が切り取られてこの場に移植されたかのように整然と並び立つ。梅雨喜の眼光が僅かに青く揺らめいた瞬間、彼の駆けるコースに緑色の光束が伸びる。
光を受けた梅雨喜の身体は軽やかにはずみ、コンテナ群をこれまでにない速度でぶち抜いていく。彼の視界は鋭く収束して標的である韋駄天の姿を捉え、その刹那に両の腕を胸の前で交差させる。
「
逃走音で割り出したコースから逃げる韋駄天の背を照らし出す。その光に触れた途端、韋駄天の動きがわずかに鈍り、筋肉が凍りつくような抵抗感に囚われる。それでも、韋駄天は慣性と急激な方向転換の応用で光を千切ると、再度闇の中に飛び込んでいく。
「
黄色の光が閃光のように走ると、韋駄天の跳躍に合わせて軌道が霧散するかのように動作そのものが掻き消された。違和感を感じた韋駄天は即座にダイナミックな動きの制限を己に科し、光を浴びずらいコンテナの合間の疾走にシフトチェンジした。
「流石だな。韋駄天」
光が切り替わるたび、赤、青、黄が脈打つ都市の心臓のようにコンテナヤードを彩り、その中心で駆ける彼は世界の秩序を掌握する裁定者のように呪いの光を支配していた。
鯵ヶ沢梅雨喜。彼を恐れる者らはその名を"信号鬼"という通称で呼ぶ。
その能力は信号機という都市的象徴を具現化し、発せられる光に対象を従わせる異能である。三色の光はそれぞれ異なる効果を持ち、相互に補完し合うことで戦局を支配する。
赤信号である"赤色唐土"はもっとも直接的な拘束力を持ち、精神的に脆弱な者を完全に止め、強靭な者であっても防御特性を封殺し、受けるダメージを致命的に増幅させる。
青信号である"青色西土"は逆に対象を強化する光であり、敏捷性や視覚能力を飛躍的に高める。特筆すべきはこの強化が重複可能である点で、青の光を浴び続けるほど機動力は連鎖的に高まり、遂には人間の限界を超え得る異常な域に達する。この恩恵は梅雨喜自身が最も享受しやすく、追跡や連撃において効果重複時での圧倒的な優位を得ることが強みだった。
黄色信号である"黄色境土"は攻撃や動作のキャンセル効果を持ち、対象の意図を中断させる制御の光である。特定の動作中に強行突破すれば黄色は赤に転じ、拘束と致命的ペナルティが発動する。すなわち、赤は制止と弱体化、青は加速と強化、黄は抑制と転化。この三色が絡み合うことで、鯵ヶ沢梅雨喜は戦場そのものを交差点に変え、敵の意志を光によって律する支配者となり得るのだ。
――
青信号により自身の機動力を韋駄天の水準にまで引き上げた梅雨喜はとうとう逃走者の背後を取った。韋駄天は視界の端で梅雨喜の姿を一瞬だけ捉えると、そこから数度に及ぶアクロバティックな方向転換により、湊の複雑な建造物の合間を掻い潜っていく。
光が分散し、収束しないことによる効果減衰を狙った動きであったが、梅雨喜は既にそれを読んでいた。複雑な地形にピンポイントの確度で信号機を出現させ、黄色の光の明滅によって突発的な韋駄天の動きを掻き消してみせた。
「チッ」
韋駄天は不快そうに顔を歪めると、逃走から一転して梅雨喜への突進に動きを切り替える。双方が加速をついた状態での交錯時、韋駄天は一瞬の姿勢制御で蹴りの準備を実現した。
当然、蹴られては困る梅雨喜は黄色信号にて攻撃モーションを強制的に解除。姿勢を崩した韋駄天はふわりと浮き上がりながら梅雨喜の少し背後に着地してみせた。
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