02 生命の危機
体躯に響く鈍痛。日常から乖離した刺激に対し、脳が全力で危険信号を発する。
鼓動が高鳴り、脂汗と冷や汗が額から頬にかけてを伝う。痛みによってじたばたを無駄な動きで辺りを掻く手足が付近の焚火を蹴散らしたが、もはや熱さも感じない。
背負っていた通勤用のリュックサックが中身のPCもろとも瓦解しているが、むしろ都合がいい。これで全力で走るまでのタイムロスが少なくなる。
とにかく、この場から逃げなければいけない。葛原天土の思考は恐怖の圧により動揺を押しのけ、根源的な生存本能により身体を動かすことを優先させた。
「ハァ…ァっ‼……ハァ」
全力疾走なんて何年振りか。ふと思い立ったように始めては飽きてやめてしまうランニングでも、ここまでの速度は出したことがない。恐怖に駆られて突き動かされる身体の負荷に対し、心臓の鼓動は十分に応えてくれている。
この不思議な空間で邂逅した謎の人狼が自分に放った「殺してやる」というニュアンスの単語。SNSや創作物の中では日夜飛び交う非現実的な脅し文句は、今この状況においては聞き流してはいけない危険信号に他らない。普段の生活では決して感じることのない純粋な"殺意"そのものを前に、それを冗談で受け流すことも、自らの手で立ち向かうことも叶わなかった。
「糞っ…ハァ!」
何がどうなっているのか、などという思考はノイズだった。今はただひたすらに奔る。それ以外に自分の身を安全を確保する術がないことを脳が身体に言い聞かせていた。
吹き出る汗も吹き飛ばす疾走の中、研ぎ澄まされた感覚の遠くで揺れを感じた。次いで耳に届く軽快なリズム。間違いない、人狼が力強く大地を蹴りながら自分を追ってきている。
振動の大きさが次第に高まり、距離が詰まっていることが手に取るようにわかる。だからといって、足を止めるわけにはいかなかった。
「ウン」
脇腹から背にかけての広範囲に再び痛みが拡がる。衝撃がアメトの身体を揺らし、溢れ出るエネルギーは彼の身体を一畝の田んぼの中央まで吹き飛ばした。水切りのように何度も田んぼを跳ね転げた彼の姿は泥に塗れ、どこからかもわからない出血により指先がぬめりを帯びた。
人狼は畦道に立ち、片脚をゆっくりと下す。その動作から、恐らくは追いつきざまに蹴りを放たれたのだろうと察することができた。しかし、かつては眞丐流空手に励んでいたアメトは、その浮世離れした威力が人間の持つパワーでないことを再認識し、受け入れがたい自らの生命の危機を改めて受け入れざるを得なかった。
「頑丈じゃねぇか。ちゃんと蹴ったぞ、俺は」
人狼がおどろおどろしい声音でそう呟く。人の言葉が聞こえてくるとはいえ、やはりその口元は人間とは乖離した獣のそれ。火の粉に照らされる爪牙は、やすやすと肉を引き裂き、骨すら断つような凶器性を雄弁に放っている。二足歩行ではあるが、かなり前傾によった猫背の姿勢はおそらく四足歩行や走行への柔軟な切り替えを可能としている。
上背も大きい。2mには及ばないだろうが、それに迫る大きさからくる迫力は立ち上がって威嚇してきているヒグマにも劣らないものだと断言できる程だった。
「……葛原天土。ここには家に帰るために通りかかった、だけ」
「なんだよいきなり。田んぼの真ん中でボソボソ喋ってんじゃねぇぞ」
「アンタが聞いたんだ。……さっき、俺に。聞いてきた」
既にアメトの身体は逃走を拒絶していた。今すぐにでも逃げ出したい恐怖は収まっていない。しかし、先程の蹴りにより刻まれた深刻な肉体へのダメージが、肉体の更なる酷使を許容してくれない。
今はアドレナリンで相殺できている痛みも、本来なら傷ついた筋肉や骨の限界を知らせる重要な通知。次にもし、先程の蹴りを諸に受ければ、砕かれた骨を越えて衝撃が内臓をぐちゃぐちゃにしてしまうだろうということは想像に難くない。
脳は次なる選択肢を探す。
相手がいかに異形の化け物とはいえ人間の言語を放つ生物である以上、対話による生還を諦めるべきではないと早々に判断した彼の脳は、なんとかこの場を切り抜けようと恐怖に震える口元を無理やりにでも動かした。
「へぇ……。じゃあクズハラだったか。ここに通りかかったのは偶然か?」
「偶然もなにも。会社帰りは基本的にこの道を歩いて家に向かうんだ。この道を選んだのも距離的に合理的だからで、他に意図も何もない」
「人が大事に隠してるモンを見つけて、わざとらしく見せびらかすような真似しといてか?」
「何を言ってるかわからない‼俺は家に帰ってただけで、アンタに用事はないし、害もないはずだ‼」
「そうかい。クズハラ、お前どうしても家に帰りたいらしいな」
人狼が歩み、田んぼに足を付ける。まだ青い稲の合間を突き進み、泥の中とは思えぬ速さでアメトに肉迫した。
「人様の世界に土足で入ってきておいて……帰りたいじゃねぇんだよ、侵入者」
人狼が大きな腕の先から爪を見せたかと思えば、その爪が残像になるほどの速度で左右に振られる。コバエを払うような単純な動作でありながら、爪の先に捉えられたアメトの両腕は捥がれ、惨たらしい断面の肉端から血が零れ出す。
「あ…ぇ…あ?」
「お前が悪意をもった侵入者か、本当に迷い込んだ哀れな人肉かなんて俺にはわからねぇ。……何にせよ、俺も怖ぇんでな。お前が死にかけても何にも出てこない一般人であることを確かめさせてもらう。そんで殺す」
「だから……何を言ってるのか…わからな」
今度は殴られた。
毛深い腕が腹を下から上に打ち上げる。そして例の如く簡単に浮き上がった彼の無防備な身体に対し、人狼は後ろ回し蹴りを見舞ってみせた。彼の泥塗れのシャツにはくっきりと人狼の足跡が刻まれ、へこんだ肉の先から吹き出るエネルギーによってまたもや全身が力の方向に吹き飛ばされた。
「う゛ゥ…‼」
もはやどこが痛むのかもわからぬ程の鈍痛、鋭痛、激痛。
自分が人の形を保っているのかさえ、自信がなかった。
人狼がのそりのそりと近づいてくる。さながら狩猟の緊迫感でありながら、完全なる弱肉強食の力の差を確立している人狼側には油断も慢心もない。注意深くアメトの動向を観測し、どんな手札を切ってくるかを待っている。
本来ならば言葉を重ねる余地もなく瞬殺することが可能な人狼の剛力と俊敏さ。それでいて、何故ここまでに甚振るような真似をするのか、アメトには理解できなかった。
再び距離を詰めてくる人狼。
その冷ややかな眼差しは、次の一撃で確実に命を奪うことを宣告しているかのようだった。
「
呪文か、魔法か。それとも必殺技?
一つわかることは、いくつかの意味ありげな単語を呟いた途端、人狼の放つ凶器的なオーラは数段と濃く色づき、溢れ出る強者としての風格、或いは殺意に彩られた毛並みが大いに立ち上がりだした。
「
周囲の焚火が旋風に掻き消され、光を断つ。
月光のみが頼りとなった田園風景に似合わなぬ人狼がその大顎を開け、喉奥から零れる焔の光を見せびらかす。
人狼とは口からビームを放つものだったか。そんなことはどうでも良い。
今もなお、生きることを諦めていないアメトは恐怖に彩られた裂帛の絶叫の中で、生還の手立てを模索し続けた。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ‼‼‼‼‼‼」
十分な待機時間の末、火力のチャージを終えた人狼はやはり口からビームを放出した。熱線はまっすぐにアメトに向かい飛び掛かり、宵闇の中にある田んぼを包む強烈な熱と光を齎した。
彼の影が赫赫たる熱線の中に消える。
断末魔が誰もいない世界に響き渡った。
―――
―――
―――
[――― おい、大丈夫か葛原?……あれ、こっちのマイクが死んでたか。いや、繋がってるか]
「………え?」
[そっちの声がミュートになってたぞ。スピーカーは問題ないか?話は聞いてた?]
「あー……。いえ。すいません天童さん。ちょっとアプリがグルってました。もうすぐ家の回線に繋げると思うんですけど、何か至急の連絡ですか?」
[それがな―――]
葛原天土は畦道を抜け住宅街に溶けていく。
街灯に照らされたコンクリートの道には月の光は届かず、それ以前に月など空には浮かんではいなかった。
通話にカエルの鳴き声が混ざらぬよう、彼は急いで借りているアパートへと飛び込んだ。
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