夢の宍
戸禮
人狼の巡り 編
序章 月と蛙
01 畦道の邂逅
初夏。
7月初頭。
人口800万人を抱える日本は
眞丐市中央区とはいえ、中心部から離れればそこは豊かな田園風景が拡がり、所謂田舎風情に溢れた景観に支配されている。米所としてある種の権威を確立している甜神地方においても、丐甜はその名がブランドイメージとなって定着する程、コメの生産地として全国に知られていた。
だから、なんだと言うのだ。
そう言わんばかりに、肩に憑き物を背負ったような重々しい足取りの男が一人。夜の畦道をゆっくりと歩んでいた。
彼は私用物とは別に会社から貸与されている職用スマホに厭悪な視線を注ぎ込んでいた。案件の情報共有チャットに次々とポップアップされる不穏なメッセージを捉えつつ、少し前のチャット内容かでくまなく遡り、起きている問題の前後関係をチェックする。
「…………クソっ。どいつもこいつも」
白いシャツは街灯もない闇に溶け、伸び始めた稲穂の隅に水面に映る月だけが頼りだ。畦道を突き進んだ先に姿を表す住宅街の灯りも疎らに消え始める午後10時35分。泡立つように湧き上がってくる新たな稼働の予感により、アメトの眉間には皺が刻まれた。
[あー。俺だ。悪いな、こんな時間に]
「お疲れ様です。チャットの件ですが、つい今しがた確認しました。
[ん、いや。俺は今日在宅だ。……ってなると、そうか。葛原は今帰ってるところか。PCは持ち帰ってるか?さっきの件で多少なりこの後動かなきゃならんのよ]
「ぇえ、まぁ。そうですね。作業用のPCは持ってるので、家に付き次第でパッチの準備に取り掛かりますが、上がってきた障害の内容的には今日中にクローズできるかは微妙なラインだと思います」
[だよなぁ。まぁ、経緯も経緯でエンドユーザー側が意味不明な操作をしてくれたのが原因だから……ベンガル社もそこまで怒り口調ではなさそうだが、自責のバグで実運用中のシステムの業務フロー単位で影響が出るのはちょっとな……。ウチの会社規模としてはかなりアウトなインシデントだ。
来週の内部監査でもゴタゴタしそうな手前、火消しのアクションは早めに打たなきゃならんのは葛原も承知の上だとは思うが……ここはひとつ、苦労をかけるが――]
「了解の上です。一旦私の方で預かります。配下メンバの稼働も見込みからかなりブレますが……まぁ、月初なのでなんとかなるでしょう」
―――
―――
―――
田舎では特に梅雨から初夏にかけ、アマガエルの鳴き声が夜な夜な響き渡る。
生まれ育った土地柄だけに、夢見心地の入眠時であっても騒々しいカエルの鳴き声も風流の一部として受け取ることができるアメトだが、ここ最近はどこか輪唱するカエルの鳴き声に鬱陶しさを感じていることを自覚していた。
眠りが浅いのも、寝起きが悪いのも、枕元に届くカエルの鳴き声のせいではないことはわかっている。全部が全部を仕事の所為にしたくはないが、今の自分の立ち位置と職責が釣り合っているとはとても思えない。
未経験から入ったシステムエンジニアの職も、今ではプロジェクトのサブリーダーとして上下の人間関係とタスクスケジューリングに悩まされる日々。彼は自分自身を器に見立てた際に今にも溢れ出しそうな溜飲を胸に、ストレスと見つめ合いながらプロジェクトメンバとの連携に注力した。
まっとうに進めば15分ほどで抜ける畦道も、今日はなんだか長く感じた。
スマホに齧り付いていたせいで歩みが遅いというのもあるだろうが、どこか得体のしれない違和感が肌を覆うようだった。
「………………」
気温も湿度も特段の異変はない。周囲を見回してみても、普段と変わらぬ田んぼが左右に開けているだけだ。
「……あ」
案件のチャットに届く着信通知。
[ああ、俺、天童。今さっきベンガル社の部長クラスから連絡が―――]
「……カエルが鳴いてない」
―――
―――
―――
葛原天土。
26歳男性。職業:システムエンジニア。濡烏色の頭髪と瞳を持つ青年。
学生時代に眞丐流空手に傾倒し、地方大会に出場経験あり。その頃の肉体は鋼が折如くに鍛え込まれたが、恵まれた体格も不摂生な今の生活リズムから虚弱化し、猫背に丸まった背からは年齢に見合わない弱々しさを感じられた。
仕事帰りに仕事をしている最中、異変を感知。
「…あ、いや。何でもないです。天童さん、それでベンガル社はなんて」
[― ― ― ― ― ―]
「天童さん?……アレ、通話切れてる。てか、アプリが落ちた?」
カエルの鳴き声が聞こえなくなった畦道。
一つの端末で繋がっていた多くの人々との関わりがふとした瞬間に絶たれてしまった。
「なんだ。…なにが」
違和感。
空気が変わった。気温も湿度もおそらくつい数分前よりも一回り高くなっている。
よく見れば周囲の景色も異様だ。
左右の田んぼを畦道が交錯するだけの無数の十字路であったはずの足場が、どうにも先程までとは掛け離れた荒地に変化している。雑草こそ疎らに生えていた畦道だが、明らかに先程までとは異なる植物形態と石礫に塗れている。
何より、この道は何年も通り慣れた見知った道。
目から入る情報、耳から入る情報、それよりなにより、直感の領域で感知している空間そのものに対する違和感こそが最も大きな異変だった。
「なんなんだ。…意味わからん」
どうにもならない居心地の悪さ。さっさと畦道を通り過ぎて住宅街に入ればいいものを、ここにきて引き返すという選択肢が心の奥からせりだしてきている。
「さっきまであったか、あんな満月」
思わず零れる疑問。感想。
顔を傾けて下ばかり見ていたから気が付かっただけか。夜空を裂くように煌々と照る満月。どこか赤みがかかった月肌は、こちらが凝視する程にどこか大きくなっているようにさえ感じられた。
「………………」
月を睨めつけるアメト。何秒、そうしていたか。ふと、視線を畦道に落としてみれば、今度はしっかりと肉眼で観測できる圧倒的な異変が目に飛び込んできた。
それは、大小さまざまな規模からなる"焚火"だった。ごうごうと空気を揺らし、パチパチと火の粉が爆ぜる紛れもない"炎"の姿が点在している。それも畦道だけではない、田んぼの至る所から夜闇を否定するかのように燦燦と光を放つ焚火が何十か所という規模で設置されているのだ。
誰が、何のために?
疑問自体が甚だ疑問。人間がわざわざ焚火を設置して回るか、田んぼに。
違う。ならばこれは超常現象か。それとも祟りの類?
わからない。
「なんだァ。お前……どうやってここに入ってこれた?」
背後からの問い。アメトは彼の人生で最大の動揺と関心を元に身体を大きく反転させる。
視線が捉えるは不気味な来訪者の姿。全身を黒く塗りつぶしたような、闇に紛れた黒ずくめの何者か。年齢も性別もわからない。ただわかるのは、それがただの人間ではないということだけだった。
闇の中、月明かりに照らされたその影は人の形をしていた――だが違う。毛皮に覆われた腕は獣の筋肉を帯び、眼は炎のような金色に光っている。剥き出しの牙が呼吸に合わせて生ぬるい夜風を吐き、耳はこちらの生態音を絡め取るように微動する。
それを形容するならば間違いなく、彼の知っている語彙は"人狼"という単語を選択しただろう。
恐怖よりも先に、背筋を撫でる圧倒的な"獣"の気配に、彼の情緒は狂いだした。
「ぁアぁ…‼…あ、…ああぁあああああ‼‼」
「うるせぇよ」
「なんだっお前‼‼なんなんだよ‼……どうなってんだっ。ここは?…た、焚火はァ⁉…お前誰なんだよ‼‼人間じゃないのかぁあ!?」
「お前仕事出来ねぇだろ。俺が先に質問してんだよ。お前、どこの誰で何しに来た?」
「お、おれおれ、私、僕はっ…ぁあ…あ」
「もういいよ。どうせロクな奴じゃねぇのはわかってる。今は大事な準備の時間だ、お前なんかに構ってる暇はねぇんだよ」
人狼の毛深い腕が振られる。
アメトの身体が浮き、跳ね飛び、転げ落ちる。
「殺してやるよ。さくっとな」
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