第3話

 声の主は、高月たかつき那帆なほ

 鼓膜を通り抜け、直接、記憶の中枢を揺さぶる。
聞き覚えがある、というレベルではない。テレビの中から、毎日のように届けられていた、あの声だ。


 そう思いながら顔を上げる。車の窓の向こう、柔らかな光の中に浮かび上がっているのは、先ほど広告で見た女性の顔。テレビの向こう側、手の届かない場所にいるはずの人物。


 思考は一瞬、氷のように固まったが、すぐに脳がギアを噛み合わせるように回転を始め、この異常事態を理解しようと必死に働き出す。テレビでよく見かけるキャスターが、なぜ、こんな時間に、こんな場所で、私に声をかけている?


 偶然か。何かの撮影か。あるいは、極度の疲労が見せている幻覚か。あらゆる可能性を瞬時に検証するが、どのシナリオも現実味を帯びない。


 足はアスファルトに縫い付けられたかのように動かない。雨は軒先を滑り落ち、絶え間なく弾けながらざあざあと響き渡る。開かれたドアの向こう側に見える、温かい光に満ちた静かな空間。全くの別世界だ。
 


 ここで背を向けるのは簡単だ。深く考えなくても、いつもの私に戻ればいい――。


 周囲も気にしなければ、何事もなかったかのように振る舞える。けれど、本当にそれでいいのだろうか。


「……お言葉に、甘えさせていただきます」

 

 小さく頭を下げ、ドアを押し開ける。意を決して温かい光の中へ一歩踏み出すと、重厚なドアがカチャリと静かに閉まり、背後の世界は音を失ったかのように消える。


 外で荒れ狂う雨音が遠ざかり、世界から隔絶されたような静寂が車内を支配する。シートベルトを締める「カチリ」という音が響く。間を置いて、運転席の女性が微笑みながら、じっと私を見つめる。


「こんな雨の中、声をかけてくれて……本当に、ありがとうございます」


「大丈夫ですよ。この車、見た目はちょっと古めかしいですけど、中身はちゃんと現代仕様に手を入れてあります。いきなり巡視員に止められることもありませんから」


 悪戯っぽく笑いながら紡がれる、予想を軽々と裏切る。テレビの中の彼女は、もっと落ち着いて、知的なコメントをするイメージだ。


 頷くべきか、曖昧に微笑むべきか。最適な応答を探して脳内のデータベースを検索するが、該当する項目は見つからない。結果、口元がわずかに引きつったまま、意味のない沈黙だけが流れていく。


 気まずさを拭うように、彼女はふっと表情を和らげる。


「驚かせてしまいましたよね。高月那帆といいます」


 やはり、本人だ。
心臓が小石を跳ねさせる水面のように弾む。「……紫倉しくら凛羽りんはです」


 フルネームを名乗るのは、普段ならビジネスの場でしか仕方がない。けれど今は、ようやく絞り出した声が、驚くほど硬く震えている。


「凛羽さん。素敵ですね」口元がわずかに緩み、目尻に細い皺が寄る。


 バナーで見た姿と寸分違わないのに、そこには生身の人間だけが持つ、そっと撫でるような温かさがかすかに漂っている。


「そういえば、凛羽さんってどの辺にお住まいなんですか?ざっくりで構わないので教えてもらえますか?」


 どう返せばいいのかわからない。気の利いたジョークも浮かばず、気の抜けた相槌すら打てない。結局、口から出たのは近くの駅の名前だけだ。


「白金台駅の、近くです」


「了解です。……あ、それならちょうど良かった。私、三田に住んでるんですけど、白金台ってほとんど通り道なんですよ。送っていきますね」


 
彼女は明るく頷き、それ以上は何も尋ねなかった。



 車は雨に濡れたアスファルトの上を、静かに進んでいく。
ワイパーが規則的な動きで、フロントガラスの雨粒を左右に払い除けている。しばらく、その音だけが車内に響いていた。


「凛羽さんは、車はお好きですか?」


 沈黙を破ったのは、思いがけない一言。好きか、嫌いか。
そんな基準で物事を考えたことが、最近あっただろうか。車は移動のための道具であり、最後にハンドルを握ったのがいつだったかも思い出せない。ペーパードライバーという言葉すら、今の私には縁遠いものに感じられる。


「免許は持っていますが、ほとんど運転はしませんから」

 事実だけを返す。会話を続けたいのか、拒絶したいのか、自分でもよくわからない。それ以上の言葉が、どうしても見つからない。


「ペーパードライバーのことですね。わかります、私も最初はそうだったんですよ」くすくすと笑いながら、昔を懐かしむように続く。


「免許を取ったばかりの頃なんて、怖くて怖くて。車線変更ひとつするのにも、心臓が口から飛び出しそうでした。でも、ある日ふと思い立って、夜中の空いている道路を走ってみたんです。そしたら、なんだか世界が自分のものになったような気がして」


 前方の信号が赤に変わるのを見て、彼女は優雅な操作で車を停止させる。

「そこからですね。運転そのものが目的になるというか、走らせるのが楽しくて。気づいたら夜通し遠くまで来ちゃってた、なんてこともありました」


 ハンドルを握る彼女の指先が、楽しげにリズムを刻んでいる。何かを「楽しむ」ために時間を費やすという発想自体が、もうずいぶん昔に失われてしまったものだ。自分とはあまりに違う生き方に、胸の奥に小さな棘のような違和感が刺さる。


「凛羽さんは、お仕事、終わったばかりですか? こんな時間まで……」
 

「まあ……」
 

「毎日あんなに遅くまで……朝も早いんでしょう?」


「……ええ、そうですね」

「そっかぁ」


 曖昧に濁すと、深くは追及せず、代わりに別の質問を投げかける。「じゃあ、帰り道にちょっと寄り道したくなるような場所って、あります?」


「寄り道は、しません……」
 


 なぜしないのか、理由をうまく言葉にできない。時間の無駄で、生産性のない行為だと、ずっと教え込まれている。気づけば、私の毎日は、自宅と会社を往復するだけの一本の線に押し込まれている……


 私の日常には、そもそもその選択肢が存在しないだけなのだ。このやり取りの中で、その事実をまざまざと突きつけられている。温かい車内の空気を壊してしまう気がして、咄嗟に言葉を飲み込む。


 彼女は、何もなかったかのように、ふわりと微笑んでいるだけだ。「そっか。じゃあ、今度どこか素敵なカフェでも見つけたら、私が凛羽さんを寄り道にお誘いしようかな」


 信号が変わるタイミングで、彼女はコンソールにそっと触れ、車内に静かな音楽を流し始める。押し付けがましさのない、柔らかなインストゥルメンタル。


「寄り道もしないで、毎日、朝早くから夜遅くまで。それだけ打ち込めるものがあるっていうのは、すごく強いことだと思います。私には、とても真似できない」


 皮肉も上から目線もない。ただ、素直な感嘆がこもっている。青に変わった信号を見て、再び車を滑らかに発進させる。


「じゃあ、行きましょうか」 


 車が走り出すと、この間に穏やかな沈黙が訪れる。彼女は、何も言わず、何も指摘せず、前を向いたままでいる。気まずさはなく、むしろ共有されているかのような、不思議な一体感のある沈黙。


 誰かに、私の働き方を「強い」と言われたのは初めてかもしれない。「隙がない」とか、「仕事ができる」とか、そういう評価は浴びてきたけれど、それは能力に対するもので、私という存在そのものを肯定する言葉ではなかった。


 車は静かに夜の街を滑っていく。激しかった雨は、気づけば、しとしとと降る小雨に変わっている。


 街灯の光が、濡れた路面に反射して、きらきらと光の川のように輝いている。フロントガラスの向こうを流れる景色は、いつも見慣れた夜景とは異なり、どこか現実離れして見えた。


 視線は交わらない。
音楽と、ワイパーの音だけが、ふたりの空間を満たしている。


 この不思議な空間で、私の頭を占めていたはずのタスクや締め切りが、少しずつ遠ざかっていくのを感じる。


 窓の外では、ぽつりぽつりと残っていた雨粒が、ほどなく完全にその姿を消そうとしている。雨上がりの澄んだ空気が、街を洗い流したかのようだ。
静かに流れる夜の街並みに目を向けながら、私はそう思う。


 こんなにしんとしたものだと感じたのは、もうどれくらい前のことだったか。
心の中に広がっているのは、焦りでも、疲れでもない。凪いだ湖面のような、落ち着いた感覚。


 明日のタスクも、保留になっている案件も、上司の指示も、今はすべてが遠い世界の出来事のようだ。
 


 この車に乗ってから、私は久しぶりに、ただの『私』として息をしている気がする。夜が、もう少しだけ長く続いてもいいかもしれない。
そんなことを、生まれて初めて思った。



 

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