第2話

 エレベーターの扉が閉まると、世界から音が消える。


 無機質な光を放ちながら、箱は下降していく。

 32、31、30……


 重力からわずかに解放される浮遊感と共に、心の中で何かが一枚、また一枚と剥がれていくような、奇妙な感覚に襲われる。


 32階で始まった非の打ち所のない一日は、1階に近づくにつれて輪郭を失い、ただ疲弊しただけの私へと分解されていく。


 淀みなく応答した会議。寸分の狂いもなく遂行したタスク。そのすべてが、この狭い箱の中では遠い過去の出来事のように色褪せていく。


 フロアの数字が一つ減るたびに、身につけていた勤勉なアナリストという役割が剥がされていくようだ。一日中張り詰めていた意識の糸が、静かに緩んでいくのを感じる。


 エレベーターは滑るように停止し、チーン、と軽やかな到着音が響くと、扉が滑らかに開く。


 広がっているのは、昼間の喧騒が跡形もなく静まり返った一階ロビー。間接照明だけが磨き上げられた大理石の床をぼんやりと照らし、人の気配はない。私の足音だけが、乾いた音を立ててだだっ広い空間に響き渡る。


 シャッターが下りた洒落たカフェ。明かりの消えたベーカリー。昼休みには、ここにいる人々の当たり障りのない会話とコーヒーの香りで満ちていたこの場所も、今はただの暗がりに沈んでいる。カウンターの奥では、夜勤の警備員がひとり、新聞から顔も上げずに座っているだけだ。


 オフィスフロアが無音の戦略室ならば、ここはまるで、時が止まった巨大な水槽の底のようだ。誰からも干渉されないこの静けさは、心地よくさえある。


 ゆっくりと歩を進め、ガラス張りの自動ドアへと向かう。ふと、正面のガラスの向こうで、何かが揺らめいているのに気づく。


 ドアの手前で、足を止める。視線の先、向かいのビルの壁面に、巨大な布製のバナーが張り出されている。街灯の光をぼんやりと反射し、夜の闇に浮かび上がったそれには、一人の女性キャスターが描かれている。


 目の前の、親しみやすい顔が、まるで親しい友人に語りかけるかのように、穏やかで温かい微笑みをこちらに向けている。眼差しは、見る者の心をふわりと解きほぐすような、陽だまりにも似た不思議な温かさを湛えている。


 そして、光に照らされるその絵の脇には、こんなキャッチコピーが書かれている。


『忙しさの中に、ちょっと一息。余白のある生き方、はじめませんか?』


 思わず足が止まる。

「……余白、ね」誰にも聞こえない声で、呟きが漏れる。


 余白なんて、今の私の辞書には存在しない言葉だ。スケジュールは分刻みで埋め尽くされ、思考の隙間は次から次へと現れるタスクで満たされている。


 この世界では、一瞬でも気を抜けば、あっという間に誰かに追い抜かれ、価値のない人間だと見なされる。こういう人は、きっと自分の疲れや重荷に気づかず、いつも軽やかに輝いているのだろう。


 自分の中に芽生えた小さな動揺を打ち消そうとする。そうに決まっている。そうでなければ、あまりにも――。


 深呼吸を一つしても、なぜか視線を逸らすことができない。温かい微笑みが、私の分厚い鎧を静かに突き抜け、内側の空虚さを見透かしているかのように感じられてならない。


『あなたは、休むのが怖いのね』広告の女性が、声なくそう問いかけてくるようだ。


気のせい、と強く頭を振る。疲れているだけ。けれど、胸の奥で燻り続けている違和感が、彼女の温かい眼差しに触れ、ちりりと小さな火花を散らす。


 さらに深く息を吸い込み、答えのない問いから逃れるように、足早にロビーを抜け、半ば衝動的に自動ドアへと向かう。



 ドアが開いた瞬間、湿った夜の匂いとひんやりとした空気が肌を一気に撫で、外の世界はいつの間にか大粒の雨に支配されている。


 アスファルトを激しく叩きつける雨音だけが、世界中の音を吸い込んで耳の奥で飽和していく。街の喧騒は遠く、分厚い水のカーテンに閉ざされてしまったかのようだ。


 いつもなら客待ちのタクシーが列をなしているはずのロータリーに、一台の車もいない。バス停のベンチも雨に濡れそぼり、待っている人影はない。


「まずい、傘を持ってこなかった……」


 スマートフォンを取り出し、少し震える指で配車アプリをタップする。画面に表示されるのは、無情なメッセージだ。


『現在、ご利用可能な車両が見つかりません』


 何度リロードしても、結果は同じだ。市場のあらゆるリスクを予測し、経営戦略を組み立てられるのに、自分の帰り道の天気予報一つ確認していない。


 会社のハイヤーを呼ぶ資格は、私のようなアナリストにはまだない。電話をして迎えに来てもらうような、甘えられる相手もいない。そもそも、そんな関係を誰とも築いてこなかったのだ。すべては自ら招いた結果だ。


 自分の車で通勤しなかったのは、たとえ運転してきたとしても、連日の激務で疲弊した頭では帰り道に集中できる自信がないからだ。


 残るものは何もなく、選択肢はもれなく雨に流されて消えていく。軒下に立ち尽くし、黒々とした夜の街を見つめながら、雨がごうごうと叩きつけ、弾けては消える様を黙って眺める。


 スマホのディスプレイが、23時56分という数字を示している。駅までは全力で走っても10分。終電には、ギリギリ間に合うかもしれない。


 とはいえ、あくまで“もしもの話”だ。もし間に合わなかったら、ここから自宅までは歩いて一時間以上かかる。鎧をまとっているはずなのに、冷たい雨に打たれる前から、心がじりじりと冷えていくのを感じる。


世間的な評価も、積み上げたキャリアも、このずぶ濡れの夜の街に取り残さの前では何の意味もなさない。



 どれくらいの時間が経っただろう。五分か、十分か。あるいはもっと。


 雨音は弱まる気配もなく、ひたすら世界の音を洗い流すかのように降り続いている。思考は止まりかけ、ビルの軒下で、まるで風景の一部になったかのように静かに立ち続けている。


 ……


 雨粒の合間にちらりと目をやると、突然、何かが動くのが見える。


 夜の静寂を破り、遠くから一つの音が聞こえてくる。他の車とは明らかに違う、低く唸るようなエンジン音。雨音の向こうから、徐々に、揺るがぬ存在感を伴ってこちらへ近づいてくる。


 ふと顔を上げると、闇の中に二つの温かい光が浮かび上がる。ぼんやりとしたヘッドライトが、雨のカーテンを優しく切り裂きながら、まっすぐにこちらへ向かってくる。


 やがてその光は、降りしきる雨を裂くように迫り、滑るように速度を落としていく。


 そこに現れるのは、息をのむほど美しいクラシックデザインのヴィンテージカーだ。雨に濡れた深く濃い紺色のボディが、街灯に照らされて艶やかな光沢を放っている。流麗な曲線を描くそのフォルムは、美しさだけを追い求めた芸術品のようだ。


 私の知る世界の常識を超えた幻想的な光景が広がり、しばらく見とれていると、エンジンが静かに止まっていく。


 窓が少しずつ、滑るように下がる。夜の湿った空気に混じる雨の匂いと熱気の中、柔らかでしなやかさを感じさせる女性の声が耳に届く。激しい雨音を鎮めるかのように、その響きは心を優しく撫でている。


「ご自宅まで、お送りしましょうか?」



 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る