紫倉を見つめて

第4話

 身体にまとわりつく気怠さは、昨夜遅くまで続いた特番のせいなのか、それとも単なる睡眠不足のせいなのか。


 午前七時。スマホから流れ出す軽やかなギターの音が、部屋の埃と溶け合う。淡い朝日が室内に差し込み、新しい一日の始まりを告げている。


 シルクのシーツに身体を滑り込ませたのは午前一時過ぎ。十分とは言えないまでも、五時間ほどの眠りは得たはずなのに、まぶたの裏にはまだスタジオの熱と喧騒の残像が、ノイズのようにちらついている。


 眠気の残る目元をこすり、意識をはっきりさせる。最低限の身支度だけ整えて、いつものように車庫へと向かう。


 窓の外を流れていくのは、まだ夢の中にいる巨獣のように穏やかな朝の街並みだ。昨日の激しい雨が洗い流したアスファルトが、朝日を鈍色の鏡のように反射している。


 車内に心地よいリズムを流していると、いずれ目的地に到着する。
駐車場では目立たないように、少し奥まった場所に車を止める。


 テレビ局の通用口をくぐると、空調の冷気が肌を撫でた。廊下を行き交うスタッフたちの慌ただしい足音と、遠くで誰かが叫ぶ声が、戦場の号令のように響き渡る。


 焦げ付きかけのコーヒーの香ばしさと、甘ったるいヘアスプレーの匂いが噴射音と共に混じり合い、始まりの気配が、現実のかたちを少しずつ際立たせていく。


那帆なほ、おはよー……って、あらら、ちょっとお疲れ顔? 昨日の特番、よっぽどだったんでしょ」


 楽屋の眩しいハリウッドミラーの前に座ると、メイク担当がそっと顔を覗き込み、いつもの笑みを浮かべた。彼女の乾いた指先が髪を梳かす感触と、冷たい化粧下地が肌に伸びるリズムで、眠っていた細胞がキュッと仕事モードに切り替わっていく。


「だよねぇ。三次会まで付き合っちゃったから。おかげでちょっと寝不足気味」

「それでその顔色と。まあ、この時期は仕方ないけど。ちゃんと水分摂ってる?」

「うーん、どうだっけな……」


 昨夜の記憶を手繰り寄せる。そうだ、水分どころか、蒸し暑いの夜、都会の雨音に包まれながらも、高層ビルの庇陰ひさいんに、ひとり立つ人がいた。


「てか、昨日の雨、歴史的災害じゃなかったですか!?」


 ちょうど湯気の立つマグカップを片手に現れたADの沢口彩が、世界の終わりでも見たかのような大げさな身振りで話に加わる。


「私、帰り道で買ったばかりのお気に入りの傘が、滝みたいな雨の重みに耐えきれず、一瞬で骨がひん曲がって逆さまのチューリップみたいになったんですよ! もう最悪!」

「あら、道端に一輪だけ悲しげな花を咲かせたのね」

「違いますよ! そのあと、ずぶ濡れで途方に暮れていたら、なぜかカラスが肩に止まってきて、仲間だと思われたみたいで、しばらく居座られました。ありえなくないです!?」

「あんた、鳥類にまで同情されるほど哀れなオーラを出してたのよ」

「ひどい!」


 二人の乾いた掛け合いに、思わず口元が緩む。
カラス、か。昨夜の彼女は、湿った夜の空気に包まれ、しっとりと光を帯びた濡羽ぬれば色の黒髪をそっと揺らしていた。


 紫倉しくら凛羽りんはかな……

 不意にその名を思い返すと、光を湛えた黒曜石の瞳が、まぶたの裏に鮮明に蘇る。


「で、結局どうしたのよ、カラスを肩に乗せたまま帰ったわけ?」とメイク担当が続ける。

「コンビニの軒下で30分も待ちました。タクシーなんて全く捕まらないし、このまま遭難するんじゃないかと。いっそヒッチハイクでもしようかと思いましたよ」

「やめなさいよ、危ないでしょ。変な人に拾われたらどうするの」


 ──変な人に拾われたら。


  そういえば、昨夜の彼女にしてみれば、私だって十分『変な人』に見えたかもしれないな。銀行員だとは思う。けれど、“ごく普通の銀行員”だとは、どうにも腑に落ちない。


「でもさー、もし止まった車が超絶イケメンの高級車だったら、乗るでしょ?」

「あんたの場合、乗る前に、イケメンかどうかより彼の年収と不動産の有無を尋ねるでしょ」

「うわ、私のことなんだと思ってるんですか!」


 二人の軽口が、遠いBGMのように鼓膜を滑っていく。


 頭の片隅で、誰かが勝手に昨夜の情報を整理しようとしている。白金台駅、銀行員、上質なスーツ。それらの記号を並べれば、エリート女性の姿が浮かび上がる。


 だがその輪郭に、昨夜の彼女の瞳の光はどうしても収まらない。「寄り道はしない」と言い切った硬質な声だけが、静かに、諦めたように耳に残る。


「ねえ、那帆、動かないで。今日のブラウス、シルクなんだから。コーヒーでもこぼしたら、シミ抜き代、あんたのギャラから天引きだからね」

「こわっ」


 慌てて背筋を伸ばす。
昨日のあの人も、上質なスーツを着ていた。車の中で見る限り、シミ一つなかった気がする。


「どうしたの、寝不足で頭が回ってない?」

「ううん、なんでもない。今日の特集の段取り、ちょっと考えてた」


 咄嗟にそう取り繕うと、鏡の中の自分が、端正な顔で微笑んでいる。そうだ、今は目の前の仕事に集中しないと——


 ……あぁ。連絡先、聞いてないじゃん、私、バカ……!


 一瞬、雷鳴のような衝撃が心を揺さぶる。もう一生会えないの?

人生で一度きりの、とてもレアなキャラクターに遭遇したのに、仲間にすることもなく、話しかけただけで満足して見送ってしまった? 一体、何をしていたんだろう。


 心の片隅に引っかかった小さな棘が、急にずきりと存在を主張し始める。スタジオの灼熱の照明の下、顔に貼り付けた満面の笑みが、次のキューを待つ間にすっと消える。


「はい、皆さん。収録本番に入ります。場ミリに合わせてください」

 

 前から、ディレクターの冷静な声が、まるで直接鼓膜に語りかけるように聞こえる。


 隣の席のコメンテーターが「高月さんの締めはいつも見事ですね」と囁いてくるのに、「とんでもないです」と口角だけを上げて返す。昨日も全く同じことを言っていたな、なんて思いながら。


 ぱちん、と。頭のどこかで、何かのスイッチが切り替わる音がする。さっきまで片隅でごちゃごちゃしていた思考が、一瞬で吹き飛ぶ。


「さあ、続いては特集です。今日のテーマは……」代わりに、よく調律された旋律だけが、喉から唇へと滑り出してくる。


 ニュース解説、情報レポート、専門家との対談。目まぐるしく変わるトピックに合わせて、声のトーン、表情の筋肉、まばたきの回数まで、無意識のレベルで最適化していく。


 ふと、スタジオの隅のモニターに、昨日の特番で使ったバナーが映る。『忙しさの中に、ちょっと一息。余白のある生き方、はじめませんか?』自分の笑顔が、他人事のようにこちらを見ている。


 余白、ねぇ……。

 昨夜の彼女の顔が、不意に脳裏をよぎる。あの、一分の隙もないような人。こんな甘っちょろいセリフが入り込む余地なんて、本当にあるんだろうか。


 そんなことを考えているうちに、フロアディレクターの指が、次のキューを指す。



 最後の提供クレジットが流れ終わった直後、スタジオに張り詰めていた糸がぷつりと切れる。肩の力が抜け、共演者たちの作り物ではない素の笑顔が広がる。


 ソファに沈み込むと、全身の筋肉が一度に弛緩して、指一本動かすのも億劫になる。


「高月、お疲れ様」

鍵田かぎたマネージャー、お疲れ様です」


 マネージャーの鍵田さんが、いつもと変わらない落ち着いた表情で近づいてくる。


「昨日の特集、結構反響あったみたいだね。視聴率も良かったって」

「そっか、それは良かったです」

「ただ……」ほんのわずかな「間」が、弛緩した空気の中に小さなさざ波を立て、体は無意識に強張る。


「ただ、何でしょうか?」

「番組終了後、編成局長と、メインスポンサーの方が、高月と少しお話がしたいと……」

「……え?」普段、滅多に会うことのない名前が並び、心臓が、どくん、と嫌な音を立てる。じわりと背中に汗が滲む。


 クレーム……? いや、でも何か変なこと言ったっけ……大丈夫なはず……。じゃあ、どうして?


 頭の中で、今日の自分の発言を必死に再生する。けれど、アドリブで何か大きな失敗をした記憶はない。それで、何の用件だろう。


「詳しいことは後で話すけど、『重要な話』があるから応接室に来て」


 その四文字にはずっしりとした重みがあり、喉の奥がカラリと乾くような感覚を伴う。



 案内されたのは、最上階にある重役用の応接室。長い廊下には二人の足音だけが、磨き上げられた床に吸い込まれていくように、異様に大きく響く。


 冷たく重いマホガニーのドアの前で、鍵田さんが「では」と一礼して去っていく。


 一人きり。深く息を吸い、こわばった表情を無理やりほぐす。大丈夫。どんな話が待っていようと、いつもの顔で受け止めればいい。



 コン、コンとノックをして、返事を待ってからドアを開ける。


「失礼いたします。高月でございます」そっとドアを押し、足を踏み入れた途端、息を呑むような空気に迎えられる。


 部屋の奥、大きな窓から差し込む光が輪郭を縁取る、革張りのソファ。その中央には、見慣れた編成局長の姿がある。隣には、おそらくメインスポンサーであろう、仕立ての良いグレーのスーツに身を包んだ男性が座っている。


 銀縁の眼鏡の奥から、値踏みをするような、それでいてどこか好意的な、複雑な眼差しが向けられる。二人はこちらに気づくと、口元にビジネスライクな笑みを浮かべた。


 二入の向こう側、少しだけ影になった位置に、もう一つの影を網膜が捉える。肺から空気が根こそぎ奪われる。編成局長やスポンサーの顔が、急速に色を失って背景へと溶けていく。


 指先から熱が失われ、代わりに氷の粒が血管を駆け巡るような錯覚に陥る。昨夜、雨の中で言葉を交わした、あの女性だ。けれど、その姿は、昨夜のそれとは似て非なるものだった。


 彫像のような静謐さをたたえ、一切の弛緩を許さないダークネイビーのパンツスーツを纏っている。髪は一本の乱れもなくまとめられ、研ぎ澄まされた刃のような緊張感を放っている。


 彼女は椅子の浅い位置に腰掛け、膝の上で両手をきちんと揃えている。背筋は、糸で天井から吊られているかのようにまっすぐ伸び、口を閉ざしたまま、こちらを見ている。


 昨夜、迷いを見せていたその瞳は、今や、全く別の光を宿していた。深い森の奥にある、光の届かない湖面。どんな石を投げ込んでも、波紋一つ立たずに、すべてを見透かすかのような黒曜石の瞳。顔に貼り付けていたはずのプロの笑顔は、音もなく剝がれ落ちる。


 なんで、この人が……ここに……?



 

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