極小、小、極大
藤瀬ねろ
極小、小、極大
ああ、なんと悍ましい。鏡に映る己の姿は、いつ見ても気色の悪うございます。潰れた鼻、膨れ上がった太った蛙のような顎。もし神様がいるのならば、神様は何をお思いになってこのような醜い生き物を作ったのでありましょう。
私は生きる上で、いつだって人を羨んでおりました。自慢ではありませんが、勉学に於いては人よりもできる人生でした。ですが、一番になったことは一度たりともありません。上を見上げればその能力を遥かに超える上の人間がいるものでございます。そんな自分に嫌気がさし、芸術にも手を掛けた試しが何度もございます。どれも、だめでした。初めは少しずつですが上達する自分に酔いしれたピアノも、書道も、絵画も、自分よりも優れたものが世に溢れていることに気づいた次第に、輝きを失うばかりでありました。今思えば、そのように簡単に諦めてしまうほど、私のそれらの物事に対する思いは、初めから薄く爛れていたものであったのかもしれませんが。
このような中途半端な私にも、人生のうち一度たりとも興味が途切れなかった、魅力的でならないものがあります。男性でございます。ああ、彼らのなんと美しい、なんと言う魅力でしょうか。彼らの低い声は私の唇を薄い白濁色に変えてしまいます。彼らの髪は、私にも同じものが幾千と生えていることを忘れさせる艶かしさを含んでございます。
醜い私は彼らのような奇跡の生物を遠くから眺めることしか許されないのであります。なんとも羨ましい、近所にすむ年下の女子は2つも上の恋人をこさえ、3日前には結婚式の招待状を寄越してくださいました。私は言いませんよ、彼女が恋人がおりながらも私めに仰ったこと。選びきれないんですって、男性が。行く道ゆく道どこへ行こうとも男性から声をかけられ、可愛いともてはやされる、と。恋人を捨てようか、もっと魅力のある男性に嫁ごうか、迷ってしまうそうです。
ここまでのジェラシーを感じたことは、私の人生でもなかなかないものです。私の醜い容姿では、内気な性格では味わえない甘い蜜を、この女めは日常的に吸っているのであります。私めも男性方の寵愛を受けたい、そう願ってこの27年間を生き抜いてまいりました。
このような私にも、神様が一度だけ機会を与えて下さったことがあるのです。26歳になったばかりの頃でありました。鬱陶しいくらいに毎日顔を合わせていた入道雲もとろけて泡になってしまいそうな暑い日でした。私の持つ数少ない友人が、ある男に、私のようなものが貴方に心を寄せている、と伝えてしまったのでした。事実無根でございます。私は彼のご尊顔を一度だけ美しい、とその友人に言ったことがあるというだけなのでした。
彼は意外なことにも舞い上がっているようでした。陰気であまり社交的ではないように見えましたので、あまり女の子からもてたことがないのでしょう。結果的に、私達は付き合うこととなったのです。紆余曲折ありましたが。信じられませんでした。あの時の高揚感、現代の若者は恋を羽でも生えたように舞い上がる思い、と表現しましたがまさにそれだとわかりました。彼は私を優しく扱い、毎日のようにご飯をご馳走してくださいました。彼が白い羽を持つ天使のように感じられたのを未だに鮮明に覚えております。実際、彼が現れてから、全てがうまくいくようになったのですから。私の卑屈な性格のせいでしょっちゅう起きる友人との仲違いも減りました。私のことをなんでもなしに殴るお母様はちっとも手を上げてこなくなりました。彼は魔法でも使ったのかしら。私はもう絶対に彼を離さない、そう心に誓いました。
ですが、真心の誓いなどベールよりも薄くて儚いものでございます。こんな私を自分から好きだと言ってくださる男性がもう一人現れました。彼は私の恋人と違い、和気藹々とした凛としたお方でいらっしゃいます。こんな日が来るとは思わなかった。思いたくもなかったけれど、私はあの憎い近所の女めと同じ感情を宿していたのではないでしょうか。選べない。彼も私の恋人も等しく愛おしく感じてしまうのであります。
思えば、私は卑下をするほど醜くはないのかもしれません。強烈に醜悪な顔面を持った女など、美しい2人の殿方が、お相手になさるはずもないでしょう?自分が魅力的であることを、認めても良い頃合いなのかもしれません。心なしか、近所のあの女めが私を見る目が、羨みを含んでいるようにも見えます。
恋人でもないのに、彼は私を誘います。今日はフランス料理を食べに行かないか。君に似合う髪飾りを見つけたんだ。感心します。言葉巧みで、ふとした瞬間に誘いに乗ってしまいそうなのです。私には、天使のような恋人がいると言うのに。来る日も来る日も、私を、私なんかを誘い続けていたのでございます。四ヶ月。長く、彼はやけになっているようにも見受けられるほどに、私に夢中だったのでございます。あの醜く歪んだ顔面を引っ提げていた私は、今や両手にグラジオラスを抱えた妖艶な女なのです。
この世は不思議に包まれているものですね。突然、彼は私を誘うことをやめてしまったのでございます。私が何かしたものか。いいや、していないはずであります。風の噂に、彼は賭け事で負けて私と恋仲にならなければならなかった。ならなければ更なる金を払わなければならないと小耳に挟みましたが、そんなはず、断じてあり得ません。私は見抜いていました。彼の私を見つめる瞳に、愛情が、熱情が込められていたことに。
私は彼に声をかけました。自分でも初めての試みであり、大変緊張いたしました。彼は眉を吊り上げて瞬きを数回した後、私に背を向けて去って行きました。きっと私からのアプローチに驚き、照れくさくなってしまったのでしょう。ええ、そうに決まっております。
何度も、何度も行きました、彼のところへ。恋人は私にぞっこんなのです。私が他の男に何度も私から近づいているなど、夢にも思っていないことでしょう。
彼は私をいない人のように扱うのです。そんなに恥ずかしがらなくてもいいのに。あのような下劣な噂を私はこれっぽっちも信じておりません。私の魅力を素直に認め、もう一度戻っておいでなさい。
かたや天使のような私の恋人は、近頃天の使者のような華やかさが影を潜めてしまったような気がしてなりません。彼は変わらず私を丁重に、触れれば溢れてしまう、グラスいっぱいの水に触るように私を愛します。慣れ、と言うものは怖いものでございますね、もうなんとも感じません。むしろ、私のような色香を纏う女はこのように扱われるべきであったのです。今まで、自分を蔑みすぎていました。貴方は、そのままでいてね。
私のことを追いかけていた彼は、筑波へ行ってしまわれました。大金を使い果たし、逃れるように越していったとか。私のことを諦めたのでしょうか。もういいのです、あんな男は。如何にせよ、彼は私を心から寵愛していたことが明白であるのです。それ以上でも、以下でもありませんこと。私めのような涙の出るほど輝かしい女を逃した彼に、同情の念を抱かざるを得ませんが。でももう気にしませんよ、私には天からやってきた恋人がいますからね。
彼は変わらず、私を愛してくれております。ですが、最近妙なのです。彼は彼の母上との関係に悩まされておられるようです。彼の御実家には二、三度だけ、お伺いしたことがございます。父上は、田園で揺れる稲穂のように穏やかな方でいらっしゃいました。ですが、いつ見ても目の焦点があっていないように見られるのでした。何か病気でも患っておられるのでしょうか、いつも生気のない人おられました。
あの人の母親。考えるだけでも恐ろしい、鬼のような女でありました。私の一挙手一投足に対し、不満を漏らしやがります。ああ、あの女。憎い。すぐに大声で怒鳴り散らすのです。以前、醤油の小瓶を投げつけられたこともあります。その後、何もなかったかのように片付けを強要してきやがりました。土下座を強要され、その愚かで仕方ない私の姿を笑みを浮かべながら撮影されたことまでもあります。なぜあのような鬼女から天使が生まれてきたのか、想像もつきませんこと。あのような性格でおられるのですから、彼とも近頃うまくいっていないのでありましょう。
三日を待たずして彼は私と目を合わせずに、言いました。「別れよう」。
天使も、私から飛び去って行くのでありました。なんと見る目のない。あの鬼女が悪魔のように囁いたのでしょうか。私への悪言を。数日も経てば私の元に帰りたいと泣いて縋ってくるでしょうね。なんと愚かでしょう。きっと私は振り払えないでしょう、あのガラス玉のように透き通った二つの眼球を、彼から発せられる甘ったるい声を。
恋人がいなくなったとて、私の魅力が、なくなってしまうわけではございません。私の美貌も、非凡の才も、なんにも変わることはないのです。近所に住むあの女めは、いかなる時も私を羨んでおります。もはや男性を選びきれないなどそのような自慢、私に一切するのをやめてしまわれました。いいえ、あの女だけではありません。感じるのです、視線を。私が話せば、愛らしい私の声に女たちが嫉妬しているのが手に取るように感じ取れます。歩いていれば、男が私の髪の美しさに振り向きます。鏡を覗けば、芯のある鼻筋が、白鳥の羽のような滑らかで艶やかな顎のラインが愛らしゅうて愛らしゅうてたまりません。このような女に対する深い愛を、去っていった二人の殿方は本気で失ってしまったはずがありません。きっとどこかで、私に思いを馳せているでしょう。道ゆく男性方も、私とお話がしたいのなら、そう言ってくだされば良いのに。
新しい出会いを、新たなる天使を探しに私は今日も歩いてみるのです。すれ違う皆、私を見ては赤面して足早に通り過ぎてしまいます。恥ずかしがり屋ですこと。街で歩いても彼らのいじらしさにあきあきしてしまうばかりでございますので、街の外れの通りを、今日は通ってみることにいたしましょう。まだ幼かった頃、お母様とよくここに散歩に来ていたものです。お母様、散歩に連れ出してくれる時に限り、私に笑顔を見せてくださいました。もう少し行くと、私の生まれる何百年も前からあると言われる、立派な大仏像が見えて参ります。この大仏像をみるためだけにこの地を訪れる人も少なくないんですって。素敵ですね。
あら、この大仏像、こんなにも大きかったかしら。しばらく見ないうちに、何倍にも大きくなったように感じられます。
極小、小、極大 藤瀬ねろ @my723
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