第2話
ノエルが白洲家を出たとき、空はまだ淡い茜色を残していた。
夏休み前夜の風が、街路樹の葉をさらさらと揺らす。
ノエルは気持ちを整えながら、明日から始まる“神探し計画”に胸を高鳴らせて帰路を急いだ。
そのころ、白洲家では。
白巴菜と羽青が家族で夕ご飯を食べていた。ダイニングテーブルの上に料理が美しく並んでいる。
テーブルの端で二人は、先ほどまでの会話の続きをこっそり始めていた。
「ねえ、さっきの話の子。」
白巴菜がスプーンを口に運びながら目を上げる。
「名前、何ていうの?」
羽青は一瞬、考え込むように首を傾げ、それから声をひそめた。
「聞いても教えてくれないんだよね。だから……近所の子に、ちょっとこっそり尾行してもらって調べたの。」
「調べた?」
白巴菜は声をひそめながら、しかし興味津々で身を乗り出す。
「うん」
羽青は頷いてから、言葉を慎重に選んだ。
「門蔵っていう家の子。名前は……『聡里』。
『さとり』か『そうり』かは分からないけど。」
「さ・と・り……」
白巴菜は舌でその音を転がすように繰り返す。
「神っぽいね。」
「……でしょ?」
羽青は苦笑いを浮かべる。
「プライド高そうだし、私たちの話に簡単に乗ってくるタイプじゃないと思う」
「じゃあ……どうやって落とす?」
白巴菜は真剣な顔でテーブルに肘をついた。
「うーん……」
羽青は考え込むように視線を彷徨わせる。
「色気とか?」
「羽青には無いけど?」
白巴菜は真顔で言い放った。
「ひどいっ!」
羽青が箸を置いて抗議の声を上げる。
白巴菜はくすっと笑い、肩をすくめた。
「まあ冗談。でも、私には少しだけあると思うよ」
「その自信、どこから来るの……」
羽青がため息をつく。
「私が貰っていい?」
白巴菜が目を細めてからかうように言った。
「だめでしゅ」
羽青は即答し、頬をぷっと膨らませる。
「ふふ、冗談だよ」
白巴菜は肩を揺らしながら笑った。
窓の外では、すっかり夜が落ちていた。
街灯が灯り、夏の夜がひっそりと始まっていた。
夕ご飯が終わり、白巴菜は一階のダイニングを出て自分の部屋へ戻った。
部屋に入ると、まだ少し明るい外の光がレースのカーテン越しに差し込んでいる。
ベッドに腰かけると、ポケットからスマートフォンを取り出して画面をタップした。
「……出るかな」
小さく息をつき、発信ボタンを押す。
三コールほどで、電話の向こうから元気な声が弾けた。
「もしもし! 白巴菜?」
「うん。」
白巴菜は小さく微笑んだ。
「神候補1の名前、把握」
「なになに?」
ノエルの声が弾む。
「門蔵聡里」
白巴菜はゆっくりとその名を告げる。
「読みは……かどくら、さとり、か?そうり? らしい」
「神っぽい……」
ノエルが感嘆したように息を漏らす。
「羽青の情報」
白巴菜が続けると、電話の向こうでノエルが鼻で笑った。
「アイツ手早」
「どうも妹は好きみたい」
白巴菜はさらりと言った。
「ばればれだよ」
ノエルの声に呆れと笑いが混ざる。
「どうする?」
白巴菜はふと声を潜めた。
「下僕にするの……かわいそうだよね」
「私、下僕にされたい♡」
ノエルが甘ったるい声を出した。
「頭悪」
白巴菜が即答する。
「頭良い奴は逆が好きな法則(笑)」
ノエルが楽しそうに返す。
「妹のだからだめです」
白巴菜は目を伏せながら、だけど声には微かな笑みが混じった。
「えー。共有しようよ」
ノエルの声がわざと拗ねた。
「妹、頭堅いから……(笑)」
白巴菜が肩を竦める気配を伝える。
「羽青は私たちの中ではインテリ担当だし!」
ノエルがどこか得意げに言った。
「私は?」
白巴菜が問い返す。
「お笑い担当」
ノエルがすかさず言う。
「ノエルは?」
白巴菜が小さく笑いながら訊くと、ノエルは少し間を置いてから声を高くした。
「私は姫」
「ぷっ……」
白巴菜は堪えきれず吹き出した。
「笑うな」
ノエルがむくれる。
「お笑い担当だし」
白巴菜は笑いを含んだまま言い返す。
「羽青嬢は?」
ノエルが話題を変えた。
「お風呂」
白巴菜は視線を廊下に向けるように答えた。
「私もお風呂行こ」
ノエルが言った。
「後で、作戦会議する?」
白巴菜が声を落として提案する。
「うん」
ノエルの声が少し弾む。
「わかった」
白巴菜はスマホを見つめながら頷いた。
「また後で」
ノエルの声が柔らかくなる。
「はい」
白巴菜も短く応え、通話を切った。
スマホをベッドに置くと、窓の外はもう夜の色に染まっていた。
これから始まる夏休みと、少しだけくすぐったい秘密の作戦に、白巴菜の胸はそっと高鳴っていた。
羽青は白洲家の二階にあるバスルームのバスタブの中で、湯にゆっくりと身を沈めていた。
天井の照明は柔らかな光を落とし、白く丸い湯気が静かに立ち上る。
浴室の壁に反射する淡い光が、揺らぐ水面と一緒に形を変えながら踊っていた。
湯は心地よい温度で、体の奥の疲れをゆるやかに溶かしていく。
額にかかる前髪が湿り、しずくが頬をつたい湯に落ちた。
そのしずく残香を指先で払ってから、羽青は静かに目を閉じる。
頭に浮かぶのは、門蔵聡里――あの小さなメガネの子の姿。
あの子の声、言葉、表情。
無能。
一瞬にして胸を突き刺したそのひとこと。
何も飾らず、何も迷わず、ただ目を見て言い切ったあの言葉。
普通は、たぶん言わない。
あんなふうに人を斬るように、まっすぐに。
あの子は、自分が有能であることを知っている。
自分の頭の中に揺るぎのない基準を持っている。
そうでなければ、あんな言葉は出てこない。
「もー……」
湯気の中に小さな声をこぼす。
あの自信はどこからくるの?
どこで手に入れたの?
羽青は問いを胸に向けてみた。
あのとき、言われた瞬間に――
悔しいとか、恥ずかしいとか、それ以上に、胸が高鳴った。
心臓がひゅっと持ち上がり、頭が少し熱くなる感覚。
なんで、無能なんて言葉にこんなに揺れるんだろう。
羽青はそっと視線を落とす。
自分の胸が湯の中で小さな泡をつけて、なだらかな丸みのまま、ぬるく透明な水と同化しているように見えた。
表面の泡がゆらゆらと移動して、すぐに溶けて消える。
あの子、普通じゃない。
でも――普通って何だろう?
みんなが同じように考えて、同じように振る舞うこと?
それとも、目立たずに波風を立てないこと?
自分はそれができると思っていた。
でもあの子は、まるで別の秤で全部を測っているように見えた。
羽青は指先を湯の中に沈め、ゆっくりとかき混ぜる。
指が通った跡に、ぬるい渦がゆっくり広がっていく。
まるで思考の行き先を探すみたいに、薄い湯の膜がくるくる回った。
目を閉じて、泡がはぜる小さな音を聞く。
胸の奥に残った高鳴りは、まだ消えずに、熱のようにじわりと残っていた。
羽青は、まだぬるい湯に手を浸したまま、そっと視線を落とした。
あの子――門蔵聡里の顔が、まぶたの裏にゆらゆらと浮かぶ。
小さな体に不釣り合いなほど鋭い目。
何も恐れず、言葉をまっすぐ放つ唇。
無能と、あんなにも冷たく、当たり前のように言えるあの子。
何を考えているのか知りたいと思った。
どうしてあんな自信を持っているのか、あんなに曇らない眼差しで人を見られるのか。
――でも。
湯の表面に映る自分の顔は、なんだかとても平凡で、頼りなく見えた。
自分はどうしたいのだろう。
あの子に追いつきたい?
あの子がどんな人物になるのか知りたい?
羽青は、問いを胸の奥に落としてみる。
すぐに答えは出ない。
けれど、何も感じないわけではない。
少し怖い。
でも、同時に――すこしだけ、憧れている。
半分、同意。
半分、否定。
半分は拒絶で、半分は、引かれるような感覚。
「もし……」
声に出してみると、湯気に紛れて掠れた。
「もしあの子に私が必要なら……」
最後まで言いきれないまま、羽青は小さく息を吐いた。
湯から立ちのぼる蒸気が、髪に纏わりつく。
ゆっくりと体を起こすと、湯が肩から滑り落ち、バスタブの湯面に柔らかな波紋が広がった。バスタブから出ると、バスルームのタイルの冷たさが、湯で熱くなった肌に心地よかった。
タオルを手に、鏡の方に向かう。
白い蒸気でぼんやり曇った鏡の奥に、自分が立っていた。
髪が濡れて張りついた頬。
どこにでもいる、少し小柄な女の子の顔。
凡庸。
鏡に手をつき、覗きこむと、自分の瞳の中に揺れる感情が映った。
憧れ、戸惑い、興味、不安――
いろんな気持ちが、全部ごちゃ混ぜになっていて、どれが本当かもよくわからない。
「……はぁ……」
溜め息がひとつ、曇った鏡に白い輪をつくる。
羽青はタオルで髪を包むと、背中を伸ばし、もう一度だけ鏡を見つめた。
湯気に薄くにじむ自分に、小さく頷く。
バスルームを出ると、脱衣所の冷たい空気が肌を撫でた。
白いバスタオルでしっかりと身体を拭き、洗面台で髪を丁寧に整える。
肩までの髪を柔らかく撫でつけると、湯上がりの匂いが空気と混合して拡散していった。
戸棚からお気に入りの淡い水色のパジャマを取り出す。
袖を通すと、柔らかな布の感触が肌に馴染んだ。
――私、どうしたいんだろう。
答えのない問いを胸にしまったまま、羽青はゆっくりと部屋へ戻っていった。
***
羽青は、ぼんやりと瞼を開いた。
目に入ったのは、すこし心配そうに覗きこむ白巴菜の顔だった。
「あれ……」
「寝てたから、起こさなかったけど……大丈夫?」
羽青は頷き、まだ夢の余韻が残るような頭をゆっくり起こす。
「うん。ありがと」
「今からノエルと作戦会議だけど……」
白巴菜の言葉に、羽青は少し目をこすって気を引き締める。
「私も出る」
「OK。私の部屋行こ。飲み物持って来て」
「はい」
羽青は立ち上がり、髪を軽く整えると廊下を歩いて台所へ向かった。
冷蔵庫から炭酸のボトルを二本、グラスと一緒にトレイに載せる。
さっきまで胸の奥で渦巻いていたいろんな気持ちは、もう少し奥にしまっておくことにした。
10分後――。
白巴菜の部屋は、昼間よりもやわらかなオレンジのライトが灯っていた。
ふたりはカーペットの上に座り、スマホをテーブルに置く。スピーカーとモニターカメラ起動していて、スマホのスピーカーモードから、ノエルの元気すぎる声が響いた。
「まずは、学校の民よ、お疲れ様!夏休み始まったし、私達には神が必要。OK?」
白巴菜は、ため息をつきながら、グラスに炭酸を注ぐ。
「OK」
羽青も苦笑しながら同意する。
「同じく」
「それでね、いきなりだけど……門蔵聡里を神候補として、私達の神にする案の採決するから」
ノエルの声は、ひどく勝手で勢いだけに満ちている。
「えーと、賛成多数で門蔵聡里を神に決定!」
「私、まだなにも言ってないけど(笑)」
白巴菜はあきれ顔でグラスを持ち上げた。
「採決する意味無。なんだよ賛成多数って。恐怖政治?」
羽青も呆れた口調で言う。
「意見者は手を挙げて、名前と所属名を名乗り、自分の体重とスリーサイズを言って下さい」
ノエルの声は、どこか得意げだ。
「議長をセクハラで強制更迭」
白巴菜が即答する。
「却下します」
ノエルはきっぱり言った。
「アホくさ」
羽青は小さくつぶやく。
「羽青嬢の失言に、教育的指導」
「はい、すみません議長(バーカ)」
羽青は素直に答えたが、最後に小声で毒を吐いた。
「羽青嬢、なにか?」
「いえ、心の声です議長」
「よろしい」
部屋の中に、冷たい炭酸の泡が弾ける音が、しばらく続いた。
白巴菜はグラスを片手に、スマホに向かって呆れと諦めの入り混じった笑みを浮かべていた。
羽青は、ため息をひとつ吐くと、少しだけ口元をゆるめた。
――ほんとにこの夏、どうなるんだろう。
でも、悪くない。
きっと退屈しない。
それだけは、確かだった。
羽青は、グラスをテーブルに置くと、深いため息を吐いた。
「ノエル、暴走機関車だよね」
「学校でストレス溜まってるから、夏休みでテンション上がってるだけ(笑)」
白巴菜は肩をすくめるように言う。
「なんの話かね?」
スマホのスピーカー越しに、ノエルのむくれた声が飛んできた。
「こっちの話だよん」
白巴菜が涼しい声で返す。
「馬鹿にするなら、私、違う学校行くぞ」
ノエルがやけっぱちな声音になった。
「なに怒ってるの?ノエル?」
羽青は笑いをこらえながら問いかける。
「私は議長役なの!」
「議長のスリーサイズは?」
羽青の即答に、白巴菜が吹き出した。
「議長にスリーサイズは無!」
ノエルの声は半分本気の抗議だった。
「意味不明」
白巴菜は冷静に言う。
「アホすぎ」
羽青も呆れ声を隠さない。
「ということで」
ノエルが急に声を張った。
「門蔵聡里の所有権はこの私、亜麻ノエルに閣議決定しました。議会閉幕!」
「議会延長します(圧)」
白巴菜が即座に宣言する。
「許可します(圧)」
羽青も同調した。
「なんで?」
ノエルが情けない声を上げた。
「2対1で閣議延長決定」
白巴菜がきっぱり言う。
「ワーイ(笑)」
羽青は手をひらひら振る。
ノエルのむくれ声がスピーカーから響いた。
「ひどい。私、せっかく議長やってあげてるのに」
「勝手に議長になって勝手に決めるからだよ」
白巴菜が小さく笑う。
「今から夏休みだし、もうちょっと落ち着きなよ」
羽青も、からかうように言った。
「私のこの情熱を誰も理解しない!」
「情熱空回り大陸(笑)」
「認めたくないけど、それな」
部屋に笑い声が満ちた。
炭酸の泡が弾ける音と、夜風がカーテンを揺らす音が交じる。
この先の計画は、きっとぐだぐだになるだろう。
それでも――
悪くない、と思えた。
「それでわあ」
ノエルの声は、やたらと澄ました調子でスピーカーから響いた。
「門蔵聡里の所有権はどうする?」
白巴菜は頬杖をつきながら、小さく首を傾げた。
「どうしようか?」
羽青は顔をしかめる。
「所有権とか?だめです」
「なぜかね?羽青議員?」
ノエルが間髪入れずに問い詰める。
「なぜかね?羽青議員?」
白巴菜も笑いを含ませて同調する。
羽青は視線をそらして肩をすぼめた。
「それは基本的人権で……す」
「門蔵聡里は神で人ではない!よって基本的人権は無!」
ノエルが即答した。
「そうそう(笑)」
白巴菜も吹き出しながら相槌を打った。
「ちょっ、なんで姉まで(笑)」
羽青が抗議する声は、どこか嬉しそうでもあった。
「なぜ?だめなのか?羽青議員に説明責任を求む!」
ノエルが声を張る。
「ノエル議長に同意(笑)」
白巴菜の声がかぶさる。
羽青は言葉に詰まってしばらく沈黙した。
視線を宙に泳がせ、どうにか言葉を探す。
「あれ?」
ノエルの声音が少し柔らかくなる。
「羽青嬢、どうしたの?」
「そうそう(笑)」
白巴菜が楽しげに囃す。
羽青は大きく息を吐いた。
「所有には門蔵聡里の同意が必要で……す」
「同意があればOK?」
ノエルが食い気味に問いかけた。
「OK?(笑)」
白巴菜がまた、かぶせる。
「同意してもダメ」
羽青は必死に言い切った。
「何がダメなの?」
ノエルが問い詰める。
「羽青議員?(笑)」
白巴菜の声が、また被る。
「もー、なんで私に攻撃集中するの?」
羽青は座布団を抱きしめて小さく丸くなる。
「面白いから」
ノエルがきっぱり言った。
「議長に同意(笑)」
白巴菜も満足げに頷いた。
部屋にはくすくす笑う声がしばらく響いていた。
夏休みの夜はまだ始まったばかりで、何も決まらないままなのに、なぜか少しだけ楽しい。
「羽青議員は門蔵聡里をどうしたいのかね?」
ノエルの声が、いたずらっぽく、くぐもってスマホのスピーカーから響いた。スマホの液晶画面にはノエルの顔が映っている。
「同じく」
白巴菜も軽やかに同調する。
羽青は唇をきゅっと結び、黙りこんだ。
視線はテーブルの縁をさまよい、両手が小さく握られる。
「…………」
「羽青議員?」
ノエルの声がわずかに低くなる。
「顔が赤いけど?」
「議長、羽青議員は門蔵聡里に特別な感情が……(笑)」
白巴菜が口元を隠して笑いをこらえる。
「言ってないです」
羽青は震える声で抗議した。
「なにを?」
ノエルが追撃する。
「なにを?(笑)」
白巴菜がさらに畳みかける。
羽青は視線を上げられないまま、かすれた声で返した。
「私は……特別な感情……無いで……す」
「なんで顔赤いの?」
ノエルが問う。
「もー、えろすぎ」
白巴菜はわざとらしくため息をついた。
「はいはい……」
羽青は小さく唇を尖らせる。
「ということで」
ノエルの声が再び議長モードに戻った。
「門蔵聡里の所有権は白洲羽青に閣議決定します」
「決定」
白巴菜があっさり同意する。
羽青は一瞬目を見開き、そして肩を落とした。
「決定ならしかたないかな……(笑)」
その声は、どこか諦めたような、それでいて、ほんの少しうれしそうな響きが混ざっていた。
小さな部屋に、三人の少女らしい甘く幼い夜の気配が、静かに満ちていた。
夜が更けて、家の中の灯りも、だんだん少なくなっていった。
羽青は白巴菜に軽く手を振って自室へ戻り、ドアをそっと閉めると、明かりを落とした。
その気配を見届けてから、白巴菜はスマホを耳に当て直した。
スピーカーを切り、ノエルの声だけが細く響く。
「ありがとう」
白巴菜はふっと微笑むように言った。
「いえいえ」
ノエルの声もどこかくすぐったそうだった。
「妹はあれでも本気なんだよね」
「なんだろ?羽青の保護欲?それとも…母性欲?」
ノエルの言葉に、白巴菜は小さく笑った。
「たぶん……妹は自分自身の平凡さ、に対する不安とか……非凡への憧れかな」
「平凡な女に無能とか言わないのにねー」
ノエルの声はあきれたようで、でもどこか優しかった。
「お互い一目惚れとか……可愛いよね」
白巴菜は少しだけため息をついた。
幼いと思っていた妹が、気づけばちゃんと他人に心を寄せている。
そう思うと、ほんの少しだけ胸が温かくなる。
「面白すぎる」
ノエルの笑い声が受話口越しに広がった。
「だよね」
白巴菜も笑い返した。
まぶたを閉じると、羽青が小さな声で「無能って言われたの」と話した顔が浮かぶ。
傷ついたのか、うれしかったのか、羽青自身もきっとわかっていない。
でも――
きっとあの子は、もうすぐ何かを自分の中に見つけるんだろう。
夏の夜はまだ長く、どこかで鈴虫が鳴いていた。
白巴菜はスマホを握ったまま、しばらく声を立てずに笑っていた。
「ところで」
スマホ越しのノエルの声が、ふいに少しだけ真面目になった。
「白巴菜?」
「なに?」
白巴菜はベッドの上で膝を抱えながら、声を柔らかく返す。
「白巴菜の夏休みの予定は?」
「ノエルしだい」
一瞬の沈黙のあと、ノエルが小さく笑った。
「OK」
「うん」
「行きたいのはプールと旅行だったっけ?」
「そうだね」
「旅行先にプールがあればいいよね」
ノエルの声には、どこか遠足の計画を立てるような無邪気さが混じっていた。
白巴菜は小さく笑って、スマホを頬に押しつける。
「神探しは?」
「すでに確保済」
「なるほど」
「じゃあ、またねー」
言いかけて、白巴菜はふっとため息を落とす。
それから少しだけためらって、声を潜めるように言った。
「明日朝、電話していい?」
「いいけど?」
ノエルの声が首をかしげるように響く。
「明日の朝、言いたいことがある」
「今、言え(圧)」
ノエルらしい言い草に白巴菜は小さく吹き出した。
「だめー」
「わかった」
「じゃあ、またねー」
「はい」
通話が切れる直前、ノエルの声が一瞬だけ揺れた気がした。
子供みたいに、でも大人みたいに。
画面が暗くなる。
白巴菜はスマホを枕元に置いた。
明日の朝が、少しだけ特別な朝になる気がした。
胸の奥に、淡い熱がじんわり灯るのを感じながら――
羽青はベッドに仰向けになっていた。
薄暗い部屋、微かに開いた窓から夜の風が揺れる。
二時間ほど眠って目を覚ますと、もうどうしても眠れなくなった。
壁越しに隣の姉の部屋をうかがうが、物音ひとつしない。
白巴菜はもう寝ているのだろう。
この時間、家の中で起きているのはきっと自分だけだ。
静かな夜。
その静けさが余計に胸をざわつかせる。
羽青はため息をひとつ落として、そっとベッドから起き上がった。
足元に置いていた生徒手帳を取り上げ、机のスタンドライトを灯す。
小さな白い光に照らされて、手帳を開く。
そこに差し込んだ一枚の写真が視界に現れる。
門蔵聡里。
最近撮ったばかりの写真だった。
通学路の途中、何度目かのすれ違い。
思い切って「写真、撮っていい?」と聞いたけれど、聡里は返事をしなかった。
何も言わず、表情も変えず、ただスマホを向ける自分をちらりと見ただけで、そのまま歩いて行った。
無視。
冷たいとか怖いとか、そういう感じじゃなかった。
ただ、淡々と、目の前に自分がいないかのように歩いていく姿が印象的だった。
羽青はその写真を指先で撫でる。
無表情に遠くを見つめる聡里の横顔。
知的で、強そうで、でも少し寂しそうにも見える。
「私の話、聞いてよ……」
誰にも聞かれない羽青の小さな声が、部屋の隅に溶けた。
何度も思い返す。
あの子は私をつまらないと思っているのだろうか。
無能って言われたのも、本当にそう思われたから?
じゃあ、何をどうすれば――
羽青は唇をきゅっと噛む。
机に頬を預けて、目を閉じる。
胸がもやもやして、苦しくなる。
「私、つまらないから?無視……なのかなあ」
夜の静けさが、余計に孤独を深くする。
灯りの中、ページの端がふるふると震えていた。
羽青は、薄暗い部屋でそっと写真を取り出した。
写真の中の門蔵聡里は無表情で、少しだけこちらを見ているようにも見えた。
「……夢に出てきてよ」
声に出すと、ますます自分が滑稽に思えた。
けれど、それでもいいと思った。
今はどうしてもこの気持ちを持て余してしまう。
悔しいのか?憧れているのか?よくわからない。
でも、無視されても、そのまっすぐで冷たい視線が少しだけ心地よかった。
羽青は写真を丁寧に折り、パジャマの胸元のブラの中にそっとしまう。
そこなら、きっと夢にも近い場所だと思えた。
「……これで、私の夢に来てくれるかな」
電気を消すと、部屋はすぐに夜の匂いに包まれた。
枕の柔らかさが一層切なくなる。
ふと、ベッドの上で膝を抱えたくなる衝動に駆られるけれど、それも面倒に思えた。
羽青は布団を頭まで引き寄せ、目を閉じた。
心臓が小さく跳ねていた。
写真の温もりが、肌に直接当たっている気がした。
「……来てよ」
暗闇の中で、小さな声が滲んでいった。
やがてまぶたが重くなる。
意識が静かに沈んでいく。
そして羽青は、そのまま、夢の中へ落ちていった。
夢の中で羽青は自室のベッドにいた。ベッドから起きると羽青は門蔵聡里を探したがいない。
「だめかあ」羽青がつぶやくと
部屋の窓をコツコツ叩く音がする。カーテンを開けると小鳥が窓をつついていた。
「あら?」
羽青は窓を開けると小鳥は部屋に入って来て部屋の机の上に止まった。
「こんばんは小鳥さん」
「門蔵聡里に何用ですか?羽青さん」
「まあ、あなたは?」
「見ての通りです。あなたの呼びかけに対しての儀礼的な訪問です」
「小鳥さんは門蔵聡里さん?」
「違うけど近いかな、私は門蔵聡里の護衛です。」
「そうですかあ、可愛い護衛さんですね」
「この姿はあなたの趣味に合わせました」
「ありがとうございます」
「服を脱いで下さい」
「良いですけど、なぜ?」
「あなたが武装していないことを確認し安全を確保したいです」
「でなければ、この小鳥の身体の所有者、小鳥本人の疑念を払いきれず、会話が困難になります。」
「なるほど、あなたは、小鳥さんの身体を借りていて、その小鳥さん本人が私に対する恐怖に晒され小鳥さんの自我内郭が、私の視線すら拒絶するのですね、嫌悪に耐えられないのですね?」
「人間は鳥族の敵ですから」
「了解しました」
羽青はゆっくりと顎を傾けた。
その仕草は、まるで「見ていい」と許可を与えるようだった。
羽青は小さく頷いたあと、静かに立ち上がった。部屋の空気がわずかに動く。
その微かな流れすら、今の彼女の肌には敏感に感じられた。
羽青は長いまつ毛の影を伏せながら、一度だけ深く息を吸った。
その吐息にわずかな湿り気が宿り、空気が肌に密着してくるようだった。
羽青はわずかに指先でパジャマの襟元に触れた。指先は、音もなく滑る。
呼吸が静かに深くなる。肌の内側で、微かな鼓動が鳴り始めていた。
静かにパジャマのボタンを外し始めた。ひとつ、またひとつ。布の擦れるわずかな音すら、空間の緊張に沈み込んでいく。
ボタンにかかる
鎖骨、肩のライン、胸元の膨らみ――柔らかく、透けるような肌は、月明かりに似た静謐な艶を帯びていた。
首元のボタンに指をかけ、ひとつずつ、音を立てないように外していく。指先の動きは、まるで何かを壊さぬように――慎重でいて、どこか儀式めいていた。
「武装は、していません」
そう言いながら、ゆっくりと、彼女はひとつ、ひとつパジャマのボタンに指を添え、指が一つずつ丸いボタン外してゆくたび、布の隙間から覗く肌が、温もりを帯びた肌が、ほの白い光を受けてゆっくりとあらわになる。一つ、また一つ。
外すごとに、滑るように外れていくボタンと、素肌は、ほのかに覗く、やわらかく、そして静かな挑発のようにも見えた。
ボタンの隙間から現れる肌は、白磁のように滑らかで、仄かに体温を帯びている。手の動きに迷いはなかった。むしろ意図的だった。
見せるために脱ぐ――その意志が、指先から空気に滲み出ていた。
なまめかしく露わになる鎖骨、喉元の陰影。胸元の起伏が静かに浮かびあがる。
首筋から鎖骨へ、そして胸元へ。皮膚は汗ひとつなく、まるで空気が直接触れてくるのを静かに受け入れているかのようだった。
最後のボタンを外した時、羽青は小さく肩を揺らし、肩をすべらせるようにパジャマのトップスがはらりと、その布を落としていく。
重力に従って滑り落ちるパジャマトップス。細い腕、柔らかな肩、胸元の肌白が露わになる。
彼女のふわりと広がる長い髪が素肌に触れ、その繊細な感触に、彼女は無意識にわずかに眉を寄せた。
パジャマトップスが滑り落ち、肘を抜け、手から零れた布が床へ静かに落ちた。肩をすべらせ、上着がするりと肩から滑り落ちた後には、細く整った肩のラインが露わになる。月光のような肌がゆっくりと露わになった。
瞬間、肌に触れた髪に羽青はほんの一瞬、目を閉じた。その動きすら、何かを差し出す儀式のようだった。
まるで、そこに感じた温度に、自分でも驚いているようだった。
続けて、両手でボトムスの腰紐を指をかけ、ほどく。
細い腰にかかる布地が、抵抗なくすべるように下がってゆく。布が腰骨、太腿をなぞり、ゆっくりと下り、内太腿を伝っていく。膝を伝い、足首で留まり、羽青が、かがんでそっと抜き取る。
その動作には急ぐ様子も、戸惑いもなかった。
ただ、丁寧に、一つひとつの動きが相手の目に届くように置かれていた。
ボトムスを指先でつまみ、滑らかに腰を伝わせる。彼女は腰に手を添え、ゆっくりとボトムスのゴムを指先で引き、ボトムスを丁寧に降ろしていく。
脚を少し開いてバランスを取りながら、滑らかな太ももが布の隙間からあらわになり、膝、足首へと順に現れてゆく。肌の白さと線のなめらかさに、どこか濡れたような光が走る。
手が太ももにかかるたび、その滑らかさを確かめるように指がわずかに触れていく。脚のラインにまとわりつく布を、慎重に、だが迷いなく脱ぎ切る。
布が足首まで降りた時、その脚のラインはひとつの曲線のように、静かに呼吸をしているようだった。
次に、そして――何も言わずに。羽青は手を背中にまわし、ブラのホックに手をかけ、ホックを外した。ブラのホックを外すと、柔らかな音を立てて緊張がほどける。ブラのストラップが一瞬、二の腕に絡んで落ち、乳房がしなやかに呼吸を始めた。
胸元を包んでいた布が落ち、身体胸部が最後の覆いを失う。
わずかな金具の音とともに、小さな音とともに、支えを失ったような、繊細な胸元を包んでいた布地が、布がふわりと宙を舞い、支えを失い布が前へと滑り落ち、乳房の輪郭が浮かび上がる。
その肌は、絹のように柔らかく、光を溶かすようなつやを帯びていた。ブラは、ふわりと床に落ちた。
彼女は胸を張り、何かを試すように相手を見た。
「見ますか?」
その声は平坦なのに、どこか艶めいていた。
見る者の倫理を、静かに試す声だった。
最後の一枚――ショーツに指をかけた時、彼女は一度だけ目線を上げ、相手の目をじっと見た。
逃げるような視線ではなく、自ら曝け出す覚悟のこもった眼差しだった。
ショーツの上に手を滑らせ、ためらうことなく親指を内側に潜らせる。そこに熱の名残があることを、あえて晒すかのように。
ショーツにもゆっくりと手をかける。やわらかく指を使って、脚を揃えながら降ろしていく。腰骨の曲線に沿わせるように下ろしていくたび、露わになる素肌は、空気の中に溶け込むようだった。
そして、ためらいのない手つきでそれを足元へ落とし、何も身に着けていない身体を晒す。下着の最後の一枚も、彼女の手によって静かに脱ぎ落とされた。
「小鳥さんに危害を加えるつもりはありません。だから――ちゃんと、最後まで確認して――しっかり、見てください」
その瞳には怯えも羞恥もなかった。
ただ、信頼を賭けた静かな覚悟が宿っていた。
ショーツが足元まで落ちたとき、彼女は膝を折らず、背筋を伸ばしたまま、まるで舞台に立つ女優のように立ち尽くした。
全裸。その肌は無垢でありながら、どこか挑発的だった。
髪の先が肩にふれ、乳房に揺れる。下腹部には目を逸らす余地もなかった。
「これで、信じられますか?」
問いは静かだった。だが、それを「答えろ」と言っているのは、彼女の視線だった。
彼女はまっすぐに立ち、隠そうともせず、ただ淡く揺れる瞳で相手を見つめていた。
彼女は、自分の存在を差し出すように立ち、相手のまなざしを真正面から受け止めていた。
肌はなめらかに呼吸し、首筋から胸元、腹部へと続くラインには、柔らかな光が撫でるように落ちていた。
羽青の動作は儀式のように静かで、どこか神聖ですらあった。
その身体は華奢でありながら、天使神のように張り詰めた緊張感と、裸の誇りを備えていた。
彼女は、隠さなかった。ただ、そこに在ることを受け入れていた。
まっすぐに立つその姿はモラトラミクスではあったが、それを押し込めて立ち尽くす姿は、どこか神聖なものすら感じさせた。
ほんの少し震えているのは、室温か、それとも肌に触れた視線のせいか?
すべてを解かれたその身体は、羞恥よりも意志を宿し、まるで見られることを前提とした芸術のような静けさを纏っていた。
全裸のまま、羽青は背筋を伸ばして立ち、まっすぐ相手の目を見つめた。
そこに羞恥の影はない。信頼と決意だけが、静かに光っていた。
「ご協力、感謝します」小鳥。
「……武装はありませんね?」
小鳥。
「はい、ありません」羽青。
彼女の声は澄んでいた。震えも、揺らぎもなかった。
この肉体のすべてを見せることで、恐怖を超え、境界を越えようとしていた。
「確認……確保しました」小鳥。
返されたその一言さえも、彼女の演出の一部だったのかもしれない。
「このままでいますか?」羽青。
「出来れば……」小鳥。
「夢の中ですから(笑)全然平気ですよ」羽青。
「稀有な方だ、普通人間は嫌がるのに…………。」小鳥。
「小鳥さんも服着てない(笑)」
「確かに」小鳥。
羽青はくすっと笑った。
目の前の小鳥は真面目な顔をしているが、その真剣さがかえって滑稽だった。
それに、夢の中なのだ。恥ずかしいとかそういう感覚はどこか遠いところにあった。
「小鳥さん、護衛ということは……門蔵さんはどこか近くに?」
羽青は素肌のまま、ベッドに腰を下ろした。
小鳥は机の上で小さく羽を揺らしながら、澄んだ声で答える。
「門蔵聡里様は現在、深層の領域に滞在中です」
「深層の領域?」
「あなたが、この夢を維持できる範囲の外側、より深い認識層のことです」
羽青は少し考え込むように視線を落とした。
「そこに行くには、どうすればいいんでしょうか?」
「あなたの意志が必要です。強く望むことで扉が開かれます。ただし、同時にあなたは防御を捨てることになる」
「防御?」
「認識の境界です。つまり、あなたの自我が危うくなる可能性があります」
「ふぅん……」
羽青は顎に指を当てて、じっと考えた。
たぶん夢の中で理屈を考えるのは無駄だとわかっていたが、それでも胸の奥でどくんと脈打つ感情がある。
「でも、会いたいな。門蔵さんに」
ぽつりと言うと、小鳥は黙ってこちらを見た。
その小さな目には、どこか戸惑いのような光が宿っている。
「……あなたは、変わってます」
「そう言われます(笑)」
「わかりました。私から、深層への誘導を開始します。ただし――」
小鳥は羽をふるわせた。
「今のように、何も纏わない無防備な心でいること。隠し事も虚勢も、何もない状態を維持してください。それが条件です」
「いいですよ」
羽青はそっと胸に手を当てる。
あの人に会うためなら、何も隠さなくていいと思えた。
「では、目を閉じて」
小鳥の声がやわらかく響く。
羽青はゆっくりと瞼を閉じた。
身体は素肌のままで、夢の空気がくすぐるように肌を撫でる。
「――門蔵聡里様のいる深層へ」
小鳥の言葉とともに、意識がすうっと深い方へ落ちていった。
まるで暗い湖の底に引き込まれるような、柔らかな沈黙だけが広がっていた。
***
羽青は気がつくと海辺に立っていた。衣服は無いが寒くない。海はエメラルドグリーンで砂浜は白く空は明るく雲と二つの月が昼間の空に浮かんでいる。見たところ誰もいない。
「ふうん。こういう世界観なんだ」
羽青は足元に目を落とした。
細かい白い砂が、指の間からさらさらとこぼれる。冷たくない。むしろ少しあたたかくて、心地よい。
「大人っぽい世界」
彼女は独りごちて、顔を上げた。
空は蒼く透き通っていて、太陽はあるのに強すぎず、真昼のはずなのにどこか穏やかで幻想的だった。
ふたつの月が青空にくっきりと浮かんでいる。
一つは銀色で、もう一つはわずかに赤みを帯びていた。
「現実じゃないのはわかってるけど……気持ちいい」
身体は何も纏っていないはずなのに、風は優しく、羞恥心も不安も湧いてこない。
むしろ、何かから解放されたような気がしていた。
「この先に……いるのかな」
彼女は砂浜を歩き出した。
足跡が残り、すぐに消えていく。波のようにゆるやかな風景の中、羽青は自分の存在が一部の夢になったような錯覚を覚える。
やがて、視界の先に人影が見えた。
――門蔵聡里。
たぶん、間違いない。
海に向かって立っていて、こちらにはまだ気づいていないようだ。
白い砂の上に、淡い影を落として静かに佇んでいる。
羽青の心が、どくんと高鳴る。
ここに来たのは、あなたに会いたかったから――そう胸の中でささやくように。
彼女は足を止め、そっと息を吸った。
潮の香りがしない不思議な海。
でも、この瞬間は、確かに夢であり、そしてたしかに自分が求めていたものだった。
羽青はもう一歩、門蔵聡里に近づいた。
やがて、その背中がゆっくりと、こちらに振り返ろうとする。
この夢の先に、何があるのだろう。
羽青は目を逸らさず、静かにその瞬間を迎えようとしていた。
門蔵聡里は海を見ていた。羽青は近づくと門蔵聡里に声をかけた。
「門蔵聡里さん?ですか?」
門蔵は無言だが羽青は門蔵聡里と確信する。
「何しているの?」
門蔵は羽青をちらっと見て
海をまた見た。
「なるほど、見ての通りですね、ふふ。」
「貴方こそ、そんな格好で何用?」
「何も身に着けない約束でここに越させて頂けました」
「酔興ですね」
「あら、お嫌ですの?」
門蔵聡里は無言。
「と、言っても服ありません(笑)」
「なにか着てください」
「困りましたね、服着ると、ここから追い出されるでしょ?(笑)」
「御明察」
「やっぱりね、ふふ」
門蔵聡里はわずかに視線を落とし、すぐにまた海へ目を向けた。
エメラルドグリーンの波が、白い砂の端でかすかなさざ波を立てている。
羽青はそんな横顔をじっと見つめていた。
声をかけても、決して多くを語らない。
でも、その一言一言に、無視できない真剣さがあるのを、羽青は感じていた。
「服が無いなら、どうするつもりですか?」
門蔵聡里の声は、やわらかで、ありながらも責めるように鋭い。
羽青は肩をすくめて小さく笑った。
「……このまま、しばらく一緒にいてもいいですか」
「……」
門蔵聡里は黙っていたが、追い返そうとはしなかった。
それだけで十分だった。
羽青は、砂浜にそっと腰を下ろす。
ひんやりとした白い砂が素肌に触れるが、不思議と羞恥も戸惑いもわかない。
この夢の中では、すべてが許されている気がした。
「見ての通りですけど……私、あなたに会いに来ました」
「……なぜ」
「……わかりません。たぶん……私、貴方に何か言ってほしいのかも」
門蔵聡里は、またちらりと視線を寄こす。
その瞳は澄んでいて、何もかも見透かすようだった。
「貴方は、愚かだ」
淡々とした声だった。
けれど羽青は不思議と傷つかなかった。
「ええ。そう思います。……でも、それでもいいんです」
「……理解し難い」
「理解できなくていいんです。私もわからないから」
海風が、ふたりの髪を優しく揺らした。
白い砂の上で、ふたつの影が並んで伸びる。
門蔵聡里は言葉を切り、しばらく遠い水平線を見つめた。
ふたつの月が空を渡り、潮騒の音だけが静かに満ちていく。
羽青はその沈黙が嫌いではなかった。
言葉が無くても、この夢の中で一緒にいられることが、今は何よりも愛おしいと思えた。
「海鳥達が笑っている」
「どこに?」
「あの右の月の下の白い雲の上」
「目が良いですね、私には見えない」
「貴方が裸だからなのか?海鳥達が笑っています」
「海鳥も目が良いですね(笑)」
「仕方ない服を持ってこさせます」
「いいの?」
「どんな服が良い?」
「白い感じとか」
門蔵聡里は海の方を向いたまま、静かに片手を挙げた。
その手のひらは細く、日差しに透けるほど白かった。
まるで、それに呼応するように、風がふわりと吹き、空のどこかで布のはためくような音が聞こえた。
羽青が振り返ると、彼女の背後に、真っ白な光のようなものが形を成していた。
それはやがて、ゆっくりと形を取り、羽衣のように軽やかな布が数枚、風に舞いながら羽青の前に降りてきた。
「……これ、着ていいの?」
羽青はそう問いながら、両手を伸ばし、布のひとつに触れる。
手に取ると、薄絹のような素材が指の間を滑り落ちた。
触れるだけで涼しく、やわらかく、まるで雲そのもののようだった。
「その服は、白でできている」
「白でできている?」
「白の意味、純粋、空虚、虚無、始まり。そういったものが織られている」
羽青は少し笑った。
「どれも私には似合わなそうだけど……」
「だからこそ、似合う。空虚に白を着せることはできない」
門蔵聡里の声は、硬質だったが、なぜか今は優しく響いた。
羽青は微かに頬を赤らめながら、手早く羽衣のような布を身にまとった。
それは自然と身体に沿い、肩を包み、胸を覆い、腰から足元までふわりと落ち着いた。
風が吹くたびに布が揺れて、まるで彼女自身が空と一体になったようだった。
「……どう?……似合う?」
門蔵聡里は答えなかった。
だが、その目に、微かに満足げな色が浮かんでいた。
「海鳥たちも、笑うのをやめたようです」
「うん、今度は私が笑いたい気分」
羽青はふわりと回った。
裾が風を含んでふくらみ、白い砂の上に描かれた彼女の影も、やさしく揺れた。
「白い服って、清らかでちょっと悲しい感じもある」
「それが海と似合うから、私は白を選んだ」
門蔵聡里の目は遠くを見つめていた。
彼女がどんな景色を見ているのか、羽青にはまだわからなかった。
でも、この時間、この空気、この会話――すべてが宝物のように思えた。
「ありがとう、服。嬉しい」
「どういたしまして」
門蔵聡里の声は、波の音にかき消されるように、優しく響いた。
羽青はその音を胸にしまいながら、もう一度、風に身を任せて小さく踊った。
その白い布は、海鳥の羽のように、空と海のあいだを自由に舞っていた。
「あの?」
「なにか?」
「人間は愚か?ですか?」
「興味無い」
「ですよね、神様らしいです」
「神は裁判官ではない。裁判官の仕事は人間の遊びに過ぎない」
「遊び?ですか?」
「言い方が気に入らないですか?」
「罪人を裁かないと治安を保て無いですから人間世界は……」
門蔵聡里は海の方へ視線を移し、ゆるやかな波の寄せ返しをじっと眺めていた。
その横顔は、どこか年齢を超えた静けさに包まれていた。
「罪人を裁くことで、治安を維持する。それはあなたたちが選んだ方法論です」
「方法論…?」
「社会を支えるための仕組み。人間は安心を欲する。そのために、誰かを罰し、線を引く。
善悪を名付けて整理しないと、恐怖で壊れてしまう。そうでしょう?」
羽青は、白い布を胸元できゅっと握りしめた。
言葉がすぐに出てこなかった。
正しいとも間違っているとも、思い切れない何かが胸の奥に残った。
「でも……それを“遊び”と呼ぶのは、やっぱり少し……」
門蔵聡里はゆっくりと振り向いた。
淡い光に縁取られた瞳が、じかに羽青を射抜いた。
「遊びは、愚かなものだと思いますか?」
「……え?」
「遊びは無意味でしょうか。子供の頃に積木を並べるように。
ルールを作り、守り、壊し、また作り直す。それは人間にとって大切な習慣でしょう」
「……裁判も?」
「そうです。社会も法律も、みな積木です。
崩れてもまた築く。壊すのを恐れてはいけない。
それを“遊び”と呼ぶことに、何の侮蔑もありません」
羽青は、ほんの少し黙った。
胸の奥のざらつく感じが、言葉にされることでやわらいでいく。
「でも……積木に押し潰される人もいます」
門蔵聡里は、細い眉をわずかに動かした。
「ええ。だから私は人間の積木に、深い興味はないのです」
「……そういうこと、簡単に言えるの、少し羨ましい」
「簡単ではありません。ただ、それだけです」
波が小さく砂を撫でる音がした。
二人の足元を白い泡がすっと引いていく。
羽青は視線を落とし、布を握りしめたまま、呟くように言った。
「人間は、積木を積みながら、その上に立ってしか自分を見れないんですね」
「そうかもしれない」
門蔵聡里はまた海を見た。
羽青もそっと顔を上げ、視線を重ねる。
水平線の先で、空と海が、曖昧に溶けあっていた。
二人はしばらく言葉を交わさず、その曖昧さに浸っていた。
「あの私は…」
「人間は死で命をつなぐ生物群の一部」
「悲しいです」
「それをわざわざ言いに来たのですか?私に言っても解決しない」
「あなたを知りたくて来ました」
門蔵聡里は、足元の白い砂を見つめるように視線を落とした。
波打ち際に残る細い貝殻が、寄せる水に半分埋もれていく。
「……私を知りたい?」
「はい」
羽青は、布を肩からすべり落とさないように押さえながら、一歩近づいた。
風はぬるく、しかし心の奥に吹き抜けるものは、冷たかった。
「私は、人間ではありません」
「分かっています」
「私を知ることに、意味はない。あなたの積木には、私を置く場所はない」
「それでも」
門蔵聡里は顔を上げた。
その瞳は、深い夜の色をしていた。
「それでも?」
「それでも……知りたいんです」
羽青の声は震えた。
言葉にした瞬間、胸の奥の何かが崩れていくのを感じた。
ずっと隠していた孤独を、他人に差し出すような、居心地の悪い心地よさがあった。
「あなたがどう思っているのか、どうしてそんなに遠いのか……知りたいんです」
「……遠い」
門蔵聡里は静かに言葉を繰り返す。
「ええ。遠いです」
「私が遠いのではありません。あなたが、まだ、そこにいるからです」
「そこ?」
「人間の輪の中です」
羽青は視線を泳がせた。
言い返せる理屈はなかった。
「でも……その輪の外に行ける人間なんて、いないんじゃないですか」
「………」
「……。」
風が二人の髪を撫でた。
砂の上を、細かい貝殻がころりと転がる。
羽青は小さく息を呑んだ。
「どうして……私の夢に、来てくれたんですか?」
門蔵聡里は、少しだけ目を細めた。
笑っているようにも、そうでないようにも見えた。
「……それは、私にも分からない」
ほんのわずかに、潮風が甘く感じられた。
羽青は、胸の奥に灯った小さな灯を、大事に抱えるように目を閉じた。
「神様にもわからないことがあるんですね」
「もちろん。人間種より長く生きているから、この世界に少し詳しいだけです。」
「それなら、私が無知なのは仕方ないですよね?」
「人間の知性は死でリセットされる。人間は同じことを繰り返す」
「なるほど、それで神様には遊びに見える」
門蔵聡里はゆるやかに視線を海へ戻した。
波打ち際は、遠い銀の線のように光っている。
「必ずしも悪いことばかりではない」
「あなた達が“歴史”と呼ぶことが出来る」
羽青は布を胸に引き寄せながら、そっと微笑んだ。
「あなたの言葉は、残酷で優しいですね」
門蔵聡里は何も答えず、目を細めた。
その瞳には、果てしない空と、幾千年の静けさが映っている気がした。
「……もし何度も同じことを繰り返すのだとしても」
羽青は息を整え、心の奥にたまった澱を吐き出すように言った。
「私は、また同じ場所を選ぶと思います。あなたがいる、この場所を」
砂を踏む足が、やわらかく沈む感覚がした。
波は寄せて、引いて、彼女の足跡を消した。
「神様にも分からないことがあって、私も無知で……」
羽青は、もう一歩だけ近づいた。
「それでも、あなたに興味があるんです」
門蔵聡里は、まぶしそうに空を見上げた。
白い雲が、二つの月の下を流れていった。
「……そうですか」
それだけを言う声は、ひどく遠くて、ひどく近かった。
波の音が、静かにふたりの足元を洗っていた。
羽青の素足が、濡れた白砂の上に沈んでいる。
彼女の声は、風の音に溶け込むように、柔らかく、けれど確かに響いた。
「お願いがあります」
門蔵聡里は、視線をゆっくり彼女へと向けた。
そのまなざしは、永い時間を見通してきたもののようで、しかし一瞬、なにか迷うような揺らぎがあった。
「願いとは?」
羽青は軽く息を吸い、まっすぐに彼女を見つめ返した。
言葉を選ぶ間も惜しむように、想いを込めて告げる。
「私と生きてください」
少しの沈黙が落ちた。
門蔵聡里の目が、わずかに細まる。
「あなたの生存時間は短いかもしれない」
「はい。だから、御迷惑はかけないとお約束します」
門蔵聡里は、海の向こうを見つめた。
空は青く、ふたつの月が雲に溶け、光が静かに降り注いでいた。
「……困った人だ」
「嫌だったら、あなたはこんなにお話し、しないでしょ?(笑)」
その言葉に、門蔵聡里はふっと小さく笑った。
それはこの夢の中で初めて見せた、人間に近い表情だった。
「確かにそうかもしれない」
羽青の瞳が、嬉しさと覚悟の入り混じった光を帯びる。
「じゃあOKですか?」
門蔵聡里は、目を閉じて一度うなずいた。
そして、静かに問い返す。
「OKすると?」
羽青は胸に手を当てて、ほほえんだ。
「私と、私の愛が与えられます」
風が羽青の髪を揺らした。
門蔵聡里は、わずかに目を細めながら言った。
「……いいだろう」
その一言に、羽青の肩がふっと力を抜いたように緩んだ。
「契約成立ですね」
「そうだな」
ふたりの間に吹き抜ける風は、どこか祝福のようで、どこか無常のようでもあった。
そしてその波音は、ふたりの新しい時間を、夢の中に刻みはじめた。
羽青は、瞼をゆっくりと持ち上げた。
視界がゆらぎ、やがて見慣れた天井の模様がはっきりと形を取り戻す。
——夢じゃなかった。
胸の奥がひどく静かで、逆に息苦しくなるほどだった。
そのままゆっくりと身体を起こすと、自分がまだ裸のままであることに気づく。
けれど羞恥より先に、窓際に置かれた白い布に目が吸い寄せられた。
朝の光が布を淡く透かしている。
あの夢の中で門蔵聡里が持たせてくれた、白い衣。
近づくと、その上に一羽の小鳥が静かに息絶えていた。
柔らかな羽が、まるでまだ生きているかのようにかすかに揺れている。
羽青は胸の奥を掴まれるような痛みを感じながら、そっと膝をついた。
そして小さく呟いた。
「ごめん……」
その言葉を置くと、部屋に誰もいないはずなのに、声が響いた。
《その小さき生物は、そなたの精神がそなたの肉体に帰るまで、そなたの肉体を護っていた。しかし悲しむ必要は無い》
羽青は顔を上げた。
声はどこからともなく降るように澄んでいて、心の奥に届いた。
《その小鳥の魂は、そなたの肉体と同化し、そなたと生きて、そなたの死後もそなたを護る覚悟を決めた者である。そなたは、神と契約した門蔵聡里の伴侶として……
そなたは門蔵聡里を支え、生命を全うせよ。》
羽青は胸の前で手を組み、目を閉じた。
涙は出なかった。ただ、どこか懐かしいような感情に包まれていた。
「……あなたは?」
しばらくの沈黙ののち、声が静かに告げた。
《鳥族の長である》
「わかりました。ありがとうございます。御恩は忘れません」
《よき》
声が消え、部屋はいつもの静寂に戻った。
窓の外で朝の風が葉を揺らし、その気配が羽青の素肌を撫でる。
羽青は白い布をそっと胸に抱いた。
重さはないのに、とても大事なものを抱えている気がした。
そして小鳥の残したぬくもりが、自分の中にしっかりと息づいているのを感じながら、
羽青はゆっくりと立ち上がった。
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