第1話

ノエルは、この学校に入ってからずっと不思議に思っていたことがある。

それは、この学校には男子が一人もいないということだった。


職員室にいる先生たちも、校門に立つ守衛さんも、食堂のお姉さんも、全員が女の人。

校内放送の声すら、女の人の声だった。


「なんでなんだろう?」とノエルは何度も考えたけれど、理由は誰も教えてくれない。

「そういうものなのよ」と言って、皆笑うだけだ。


だからなのか、ここの暮らしには、ちょっと普通とは違うことがいくつもあった。

たとえば、白巴菜と羽青のこと。


その日の午後、夏休みの補習が終わって、三人はプールの授業に出ることになった。

いつものように、教室でちょっと宿題を広げていたノエルの隣で、白巴菜が立ち上がった。


「……暑いから、早めに着替えちゃう」


言うが早いか、白巴菜は制服のリボンをほどき、襟元に指をかけた。

ノエルは瞬間的に目を見開いた。


「……ちょっと待って!」


「何?」


白巴菜はきょとんとしている。

羽青は鞄をがさごそ探りながら、のんびりと口を開いた。


「だって、着替えるって言ったじゃない」


「そういう問題じゃない!」


ノエルは机を叩きそうになりながら、思わず後ずさった。

目の前で、制服がするりと肩から滑り落ちていく。

その向こうで、羽青もすでにスカートのホックを外している。


「……なんで更衣室に行かないの!」


「?」

双子が揃って不思議そうに首を傾げる。


「だって、この学校に男子いないじゃない。先生も女子だし、別に見られても恥ずかしくないでしょ」


「そういう問題でも……いや、問題だよ!」


ノエルは頬を赤くしながら、思わず手で視界を隠した。

こんなふうに、いきなり着替え始めるのは、入学してから何度目だろう。

体育の前も、プールの前も、制服を脱いで体操着や水着に着替えるのはいつも教室だ。


「ノエル、先に着替えちゃうね」


「だから、目の前で……」


羽青はあっという間に青いスクール水着を引っ張り出し、するりと袖を通す。

白巴菜も続いて、手際よく着替えを終えた。


二人はなぜか、この教室で当たり前のように着替える。

誰も注意しない。

誰も不思議がらない。




午後の陽射しはやわらかく、学校の屋上プールの水面に銀色の光をまばたかせていた。

夏の真っ只中、女の子たちのはしゃぐ声と水音が空へ弾けて消えていく。


ノエル、白巴菜、羽青の三人は、浮き輪に身体をあずけながら、ぽよんと波に揺られていた。

「ぷかぷか研究部」と呼んでいるこの時間は、プール授業の終わりごろ、体力を使い切った女子たちがただ浮かぶだけの、秘密のリラックスタイムだった。


「……ねぇ、神って女子だと思う?男子だと思う?」

ノエルがぽつりと問いかけた。


「ん〜?」

白巴菜が浮き輪の端から首だけを持ち上げた。


「女子だと思う」


「私も〜」と羽青が片手で水面をぱしゃぱしゃ。


「なんで??」


「……なんとなく」

「同じく」


ノエルはぷくっと頬をふくらませた。


「なんでそう適当なの? もっと論理的に考えてよ」


白巴菜はのろのろと仰向けになって、空を見ながらつぶやいた。

「ノエルの質問が大きすぎるんだよ。神が男か女かなんて、誰にもわからないじゃん」


「うん、質問の意図を明確にせよ!」羽青が敬礼のポーズでふざける。


「……えーとね」

ノエルはすこし考えこむ。

水に揺れる浮き輪のきしむ音が、プールサイドから遠くのセミの声に溶けていった。


「女子って、子ども産める」

「うん」

「だから、命をつくるっていう意味では、神に近い存在ってことで……そうなると、神って女子なのかなって」


静かになった。


ふたりは浮いたまま、首だけノエルの方に向けた。


「……は?」

白巴菜が言った。


「……は?」

羽青も重ねた。


「え? なに?」ノエルが不安そうに聞き返す。


「それ、どういう論理?」

「神って女子優遇のシステム設計者ってこと?」


ノエルは焦って手をばたつかせた。

「違う違う! そういうことじゃなくて……あの……」


「でも、面白いかも」

白巴菜がニヤっと笑った。


「その論だと、神が女子を優遇したのは、子供をつくれるからで……だから女子が神に近い存在で……つまり神も女子……ということになる……ふむ」


「ってことは、神が女子だとしたら、ノエルも神なの?」

羽青が首をかしげる。


「えっ、それは……私は神じゃないよっ」


「でもさ、私たち、ノエルのこと神って呼んでるよね」


「そうだった……」


三人は水の中で小さく笑った。

その笑いは、午後の陽射しの中でふわっと膨らみ、銀の波紋を広げながら、夏の空へとゆっくり溶けていった。




プールの授業が終わると、みんなそれぞれにタオルを手に、シャワー室へ向かった。

この学校には、シャワーの奥に広い浴室があり、木の壁と木と土の匂いがする大きな木製湯船があった。

女子だけの空間は、まるで秘密基地のようだった。


白巴菜は肩までお湯につかり、ほうっと息をついた。

羽青は髪をお湯の中でゆらゆらさせている。

ノエルは湯船のふちに座り、足だけ浸していた。


「……さっきの話だけど」

白巴菜が切り出した。


「女子が子供を作れるのって、ただ進化の過程で偶然得た能力なんじゃない?」


「そうそう」羽青が同意して、髪の先を指でつまむ。

「生物学的な役割ってだけで、別に神様が決めたわけじゃないと思う」


ノエルは口をとがらせた。

「でも、だからこそ女子は神に選ばれたんだよ!」


「……理由は?」

白巴菜が目だけでノエルを見る。


「根拠は?」

羽青が肩まで沈んだまま、のぞき込むように尋ねた。


ノエルは胸を張り、小さなこぶしを湯気の向こうに掲げた。


「女子が優れているからです! だから神は女子を選んだの! 私、偉い!」


「……」

白巴菜は半眼になった。


「……」

羽青は小さくため息をついた。


「それってさ、女子が優れているっていうよりも……」

白巴菜が視線を泳がせながらつぶやく。


「男子が、いまいちなだけなんじゃない?」

羽青が口を押さえて笑った。


ノエルは慌てて立ち上がり、ぽたぽたと足からしずくを落とした。

「そんなことない! 女子は、すごいの! 女子は強くて、きれいで、優しくて、それに……」


「え、それってノエルの自己紹介?」

白巴菜が首をかしげる。


「……ち、違うよ!」

ノエルは耳まで赤くなった。


「でも、まぁ、ノエルが偉いのは否定しないよ」

羽青が湯の中でにやっと笑う。


「偉い偉い、女神さま〜」

白巴菜も手を合わせて拝むポーズをする。


「やめてよ! もうっ」


三人の声が、湯気に混じって弾けた。

浴室の大きな窓から見える青空は、夏の午後のまぶしい白さを残していた。




湯気が満ちた浴室は、さっきよりも静かで、窓の外からセミの声が遠くに聞こえた。

白巴菜は湯船の縁に肘を置いて、ぼんやりと水面を見ている。

羽青は湯の中にあごまで沈んでいて、目だけがノエルをじっと見ていた。


ノエルは、湯船の外で膝を抱え、足先をぴちゃぴちゃとお湯に浸しながら言った。


「……神が女子だと、仮定して…」


「仮定?」

白巴菜が顔をあげる。


「暫定神(笑)」

羽青が湯の中からくぐもった声で冷やかす。


「仮定して…つまり……」

ノエルは言葉を選ぶように唇をむすんだ。


「女子が男子を……人類を……支配すべきだと……思う」


一瞬、浴室に水音だけが残った。

白巴菜がゆっくりと目を閉じて、数秒考えるふりをした。


「……結論、早っ」


「……考察、無っ」

羽青が肩を揺らして笑った。


「えっ!? な、なに!?」

ノエルはあわてて言い返す。

「だって! 女子が優れてるって話から、その…神も女子で…女子が偉いって…」


「だからといって即支配する必要はないよね」

白巴菜が目を開き、あきれたようにノエルを見る。


「人類支配の計画立てるなら、もっと積み重ねてよ」

羽青が指で水面をくるくる回す。


「! 仮定だから、仮定!」

ノエルは必死で手を振った。


「ノエルは、暫定神の暫定支配を目論んでる」

白巴菜が淡々と宣言した。


「こわいこわい。ノエル帝国こわい」

羽青は笑いながらも、ちょっと楽しそうにノエルを見上げた。


「そ、そんなんじゃない!」

ノエルは耳まで赤くなって、お湯をばしゃっと跳ね飛ばした。


でも、その姿に二人は笑いをこらえきれなくて、浴室はまた賑やかな声に満ちた。




湯船の水面に、外の光片がちらちら映っている。

白巴菜が手を伸ばして、ノエルの足先をつついた。


「……で、女子が人類を支配して……」

彼女は半分目を細めたまま、いたずらっぽい声を出す。


「何するの?」

羽青が頭だけ湯船から出して問いかける。


「えっ」

ノエルはちょっと面食らった顔をした。


「だから、支配したら何するの? 世の中変えるの?」

白巴菜が念を押す。


ノエルは、くるくると視線を泳がせた。

頬に赤みを残したまま、小さく手を握りしめる。


「……学校で……テストが……なくなる」


「……は?」

白巴菜がゆっくり眉をひそめた。


「学校の……意味、無っ!」

羽青が湯船をばしっと叩く。


「え、えっ!?」

ノエルは慌てて言い返す。

「だ、だって! テストって嫌じゃない!? いらないじゃん! 勉強してるのに毎回数字で評価されてさ、みんな比べられて、どんどん嫌になるし……」


「それはまあ、気持ちは分かるけど……」

白巴菜はため息をついた。

「でも、テストなかったら、学校来る意味ないじゃん」


「頭、悪くなるじゃん(笑)」

羽青が笑いながら肩をすくめる。


「うぅ……」

ノエルは唇を尖らせた。

「でも……女子が支配したら、もっと楽しい学校になるって思ったの……ゲームしたり、好きなことだけ学んだり……」


「ゲームするために学校に来るの?」

白巴菜がじとっとした目で見上げる。


「それはそれで、ちょっと楽しそうだけどね」

羽青が肩までお湯に沈んで目を閉じる。


「……ノエル帝国の教育方針は、知性を犠牲にするらしい」

白巴菜が真顔で宣言した。


「そ、そんな帝国じゃないもん!」

ノエルは必死で否定したけれど、二人がくすくす笑うのを止められなかった。




湯船を出ると、三人は静かに水気を払った。

白巴菜が大きなバスタオルを羽青の頭にぽんとかぶせる。

「ほら、ちゃんと拭かないと風邪引く」

「うー、分かってる……」


ノエルもタオルをぎゅっと握り、まだ火照っている頬を冷ました。

髪をくしゃくしゃにして、足先を丁寧に拭う。

「……この時間、眠くなるね」

「湯船長かったからね」

白巴菜が濡れた髪を手早くまとめる。


制服に着替えると、いつもの三人に戻った気がした。

白巴菜が襟を整え、羽青がリボンを締め、ノエルも慌ててボタンを留めた。


脱衣所を出て廊下を歩くと、自販機が青い光を放って待っていた。

冷たい飲み物を思うだけで、喉がきゅっと鳴った。


「……やっぱり、コーラ」

白巴菜が迷いなく選んだ。

「私はオレンジジュース」

羽青もボタンを押す。

ノエルは少しだけ悩んで、緑のスポーツドリンクを選んだ。


カラン、と三つの缶が落ちる。

次の瞬間、電子音が響き、ルーレットがゆるやかに回転した。

三人は無言で数字が揃うのを見つめる。


カラカラ……カラ……カチッ。

「……ハズレ」

白巴菜が肩を落とした。


「……ハズレだね」

羽青が缶を取り出す。


「……ハズレだ……」

ノエルもつぶやいた。


それぞれ缶を手に、ぬるい風の吹く廊下でため息をつく。


ノエルは、缶を見つめた。

「……神は……サイコロを振らない」

「え?」

白巴菜が振り返る。


「……いや、神は運を操作したりしないってこと……」

ノエルは真顔で言った。


「当たったって、二本も飲めないよ?」

白巴菜は呆れた顔で呟いた。

「お腹たぷたぷになるし」


「それより当たりは現金にしてほしい」

羽青は冷静に言った。

「現金なら後で買い足せるじゃん。飲み物二本とか、ありがた迷惑……」


「神の存在より現実的だね……」

ノエルは頬を膨らませた。


「……でも、当たる瞬間はちょっとドキドキするよね」

白巴菜は缶を握りしめて言った。

「……まぁ、今日は三人で外したからいいんじゃない?」


羽青も小さく笑った。


ノエルは缶のプルタブを開けた。

炭酸の音が小さく弾けた。

「……じゃあ、乾杯する?」


「乾杯?」

白巴菜が首を傾げる。


「運に負けた記念……?」

「負け記念乾杯ね……」

羽青が苦笑しながら缶を掲げた。


白巴菜も笑顔になった。


三つの缶が、ぺこんとぶつかり合った。

校廊下に、静かな炭酸の音が溶けていった。




冷たい炭酸が喉を過ぎると、三人は少しだけ生き返ったような気がした。

プールで疲れた身体に、甘さが沁みる。


廊下の端にある小さなベンチに腰掛けて、それぞれの缶を手にしたまま、夏休みの話になった。


「……夏休み、何する?」

ノエルが、ぼんやりと天井を見上げながら口を開いた。


「プールか、旅行かな」

白巴菜はあっさり答えた。

「家族で温泉行く話も出てるし」


「私は……買い物とか食事とか」

羽青は少し恥ずかしそうに缶を揺らす。

「冷たいパフェ食べたいなって」


「ばらばらじゃん」

ノエルは呆れたように言った。

「神探しは?どう?」


「……神探しって何?」

白巴菜がじっとノエルを見た。


「神を探して、下僕にするの」

ノエルは胸を張って宣言した。


「……?」

羽青が目を瞬かせる。


「だから、夏休みの自由研究で神を捕まえて、下僕にする」

「……下僕って……」

白巴菜が困ったように口元を押さえた。


「神が下僕になるかな?」

「むしろ下僕にされるかもよ?」

羽青は真面目に言った。


「大丈夫。神を下僕にすれば、夏休みは完璧に楽しめるの」

ノエルは缶をぎゅっと握った。


「……そんなMな神、いるかな……」

白巴菜が肩を落とす。


「Mってなに?」

羽青が首を傾げる。


「……私達に支配されたい神のこと!」

ノエルは即答した。


羽青は小さくため息をついた。

「……私、買い物と食事がいいな……神はいいや」


「私はプールと旅行。神探しは自由にどうぞ」

白巴菜も笑いながら言った。


「……待ってよ!神探しは三人でやるの!」

ノエルが立ち上がり、二人を交互に指さす。


「じゃあ、買い物と旅行と神探し……三つ全部やる?」

白巴菜が困り顔で提案した。


羽青が缶を傾けて残りを飲み干した。




放課後の陽射しが少し傾いて、廊下の床に三人の影を長く伸ばしていた。

空調の音だけが静かに響く中、ノエルは大きく息を吸って、宣言した。


「よし、決めた! 神探しはプールと旅行と買い物と食事、全部でやる!」


「……」

白巴菜が目をぱちくりさせた。


「プールに神がいるかもしれないし、旅行先にいるかもしれない。買い物中に偶然出会うかもしれないし、食事中に神が来るかもしれない……!」

ノエルの目がきらきらしている。


「……いいけど、本当に神なんているの?」

白巴菜は缶をゴミ箱に入れながら言った。


「探さないとわからないでしょ!」

ノエルは少しむきになった。


そのとき、羽青が小さくため息をつきながらつぶやいた。

「……普通に、私、下僕いるけど」


「……!!」

ノエルと白巴菜が同時に振り向いた。


「? 誰??」

ノエルが息をのむ。


「近所の子……とか?」

羽青は口元を指で押さえながら、少し困ったように視線を泳がせた。


「いいなあ!」

ノエルが羨望の声をあげた。


「知らなかった……」

白巴菜も目を丸くした。


「宿題、見てあげると、お菓子くれるの」

羽青は小さな声で告白した。


「……それ家庭教師。」

ノエルが即座にツッコミを入れた。


「上手く使われてるだけでは……」

白巴菜も真顔で言う。


「……ガーン! 知らなかった……」

羽青は目を見開いたまま、頭を抱えた。


「まあ……そういうのも下僕に入るのかな?」

ノエルは複雑そうに頬を掻く。


「神探しと全然関係ないじゃん……」

白巴菜が苦笑して肩をすくめた。


「でも、神を下僕にするより現実的じゃない?」

羽青はちょっと真顔で言った。


ノエルはぐっと唇を噛んだ。

「……く、悔しいけど、確かに……」


「とりあえず、プールと旅行と買い物と食事、予定立てる?」

白巴菜が少し笑いながら言うと、三人は視線を合わせて、頷いた。


それぞれの思惑と小さな野望を胸に、廊下の影はさらに長く伸びていった。




***




次の日。校門を抜けると、夏休み直前の校庭にはわずかな人影が残っていた。運動場の土の匂い、芝生の草の香り、校庭に残された遊具の金属の熱が、午後の空気に混ざって微かに揺れていた。夏休みの始まりを控えた独特の静けさが、風に乗って校舎の廊下や階段まで届く。

二階建ての校舎は、白い壁に薄茶色の窓枠が整然と並び、古い木製の階段は所々軋み音を立てている。教室の窓ガラスは少し曇っていて、外の木々や運動場の景色を淡く反射していた。

廊下を歩くと、掲示板に貼られた生徒の絵や通知表、夏休み前の注意事項の紙が目に入る。紙の端は少しめくれていて、風が通るたびにかすかに揺れる。体育館の方向からは、遠くでボールが跳ねる音や、掃除道具の金属が床に当たる音がかすかに聞こえた。校庭の片隅の花壇には小さな花が咲き残り、乾いた土の匂いが混じった湿った風が、校舎の木製のドアを通して教室まで届いている。

空は明るく、青さを増している。けれども、教室の窓を通して入る光は、少しだけ黄色みを帯び、初夏の暑さを強調していた。夏休み前のこの日、校舎全体がまるで眠りに入る直前の熊プーさんのように、微かに静止しているかのように感じられた。



教室の中は陽射しで熱を帯びていた。窓は全開で、重たいカーテンが時折風に煽られ、ゆらゆらと揺れる。窓枠に積もった埃が光に反射し、白い粒が風に舞うのが見えた。黒板の前には、チョークの粉がうっすらと積もり、日差しの中で微かに光っている。壁には時計がかかっており、長針が少しずつ進むたび、かすかな針の音が教室の静けさを切り裂く。

机と椅子は整然と並んでいて、木製の机の表面は使い込まれた跡が無数に残り、ペンや消しゴムの跡が微かに削れている。床はワックスで磨かれたが、熱を吸ってほんのり温かく、教室の隅には観葉植物が置かれ、葉がかすかに揺れる音と、土の湿った匂いが漂っている。

生徒たちの鞄やノート、文房具の色と形が机の上で微妙に混ざり合い、静かな混沌を作り出していた。教室の空気は重く、息を吸うと湿気が肌にまとわりつく。扇風機はないが、風が窓から入り込み、微かに埃と夏の匂いを運ぶ。黒板の文字や掲示物の色は、光の具合で淡く揺れ、見ているだけで時間の流れがゆっくりになるように感じられた。

生徒たちの席はほとんど空で、数人だけが静かに教科書を閉じたり、鞄の中を整理したりしている。鉛筆の芯が削れる音、紙をめくる音、遠くの校庭で蝉が鳴く声、全てが午後の暑さと静けさを強調していた。教室全体が、夏休み前の少し物憂げで、けれどどこか安心感のある時間に包まれていた。



窓は全開。窓際の席に座るノエルは、うちわを小さく動かしながら、頬を赤らめていた。

夏制服は白地に薄い水色のセーラーカラーがついていて、胸元には同じ色のリボンが結ばれている。

袖は短く、肘より上の細い腕が日焼けしはじめていた。

プリーツスカートは膝上まであり、涼しげではあるものの、生地の内側にこもった熱で脚も少し汗ばんでいた。


隣の席で、白巴菜は机に突っ伏している。

同じ制服だが、彼女の胸元のリボンは少し乱れていて、額には汗がにじんでいた。

背中まで伸びた黒髪が広がり、机の表面にぺたっと貼りついている。

指先だけを動かして、うちわをパタパタとあおぐその姿は、もはややる気をすべて手放した人のようだった。


教室の後ろの方では、羽青が椅子を後ろ向きにして、窓から入る風を少しでも感じようと顔を上げていた。

細い髪が風に揺れて頬にかかり、そのたびに指で払いのける。

制服のセーラーの襟元を指で引っ張って風を通しながら、ぼんやりと空を眺めている。

羽青のスカートはノエルや白巴菜と同じはずなのに、彼女が座ると少し短く見えた。

膝の上に置いたノートには「夏休み計画」とだけ書かれていて、その先の文字はまだ埋まらないままだ。


黒板には「夏休みのしおり」が大きな字で書かれている。

教卓の上に積まれたプリントは、誰も取りに来ないままだった。

時計の針は、ようやく四時に近づいている。

教室中の女子たちが、だらりと背もたれに体を預け、まるでこの暑さに降参するかのように動きを止めていた。


「……暑い……」

ノエルが小さな声で呟いた。


「……溶ける……」

白巴菜は顔をあげずに返事をした。


「……でも、夏休み……」

羽青はゆっくりと笑った。


その言葉だけが、遠くにある期待のように、わずかに三人の心を支えていた。




チャイムが鳴り、担任の先生が「このあと春期終了式を行います」と声を張った。

教室のあちこちからため息が漏れ、教卓の前には渋々立ち上がる生徒の列ができ始める。

だが、ノエルはそっと立ち上がり、白巴菜と羽青のほうを振り返った。


「……行く?」

ノエルが小声で問いかける。


白巴菜は顔を上げ、羽青と視線を交わした。

二人とも、ほんの一瞬だけ迷ったように口を閉ざし、それから同時に立ち上がった。


「……行かない。」

羽青が断言する。


「……だね。」

白巴菜もため息混じりに頷いた。


三人は、誰にも気づかれないように荷物をまとめ、廊下へ抜けた。

式に行かない生徒がいないか先生たちが見回るので、本来ならば教室に残るのも校則違反だ。

でも、そんなことはこの際どうでもいい。

彼女たちにはもっと重要な計画があった。


静かな廊下を抜け、女子専用のシャワー室に入る。

この学校には大きなシャワー室と浴場があり、部活動やプールのあと自由に使える。

いつもは放課後もにぎやかな場所だけれど、今日は終了式。

先客は誰もいない。


「……誰もいないね。」

ノエルが辺りを見回してつぶやいた。


「サボる人、そんなにいないでしょ。」

白巴菜はロッカーの鍵を開けながら言った。


「私たちは特別だから。」

羽青は平然と笑い、制服のボタンを外しはじめる。


三人はもう慣れた様子で、制服を畳むとタオルを肩にかけ、シャワーの列に並んだ。

冷たい水を頭から浴びるたび、うだるような暑さが少しずつ洗い流される。

髪に水滴を残したまま、彼女たちは黙ってシャワーを浴び続けた。


やがて終業式が終わり、校内放送が流れはじめる。

放送を遠くに聞きながら、三人は髪を軽く絞り、タオルで身体を拭いた。

制服を着直す頃には、ほんの少しだけ背筋がしゃんとしていた。


「……終わったね」

ノエルが言った。


「終わった」

白巴菜が笑った。


「夏休み」

羽青がそう言って、脱衣所の扉を押し開けた。



学校を出ると、すっかり夕方の匂いが漂っていた。

蝉の声とアスファルトの熱気が混ざり合い、夏の始まりを告げている。

三人は校門を抜け、そのまま白巴菜と羽青の家へと歩き出した。




白巴菜と羽青は双子だけれど、性格は似ていない。

同じ家に住んでいても、それぞれが別の世界を持っているようだった。

それでもノエルは、二人といるとなんとなく心強かった。



双子の家は学校から歩いて十分ほどの場所にあった。

古いけれど広々とした家で、玄関の扉を開けると少し冷えた空気が流れ込む。



家は二階建てで、瓦屋根と白い外壁が夕焼けの光を柔らかく受け止めていた。

木製の格子窓の奥にはカーテンがゆるやかに揺れ、

縁側が庭へと続いている。

和風の造りに見えるが、二階のベランダや手すりには洋風の装飾が施され、

まるで古い時代と新しい時代がひとつの家に同居しているようだった。庭続き、木の柱の影が地面に長く伸びている。



庭には緑が多く、低い笹やツツジの間を風が通り抜ける。

葉が触れ合うたびに光が細かく揺れ、水面のようだった。

奥には小さな栗の木と、季節ごとに花を咲かせる草花が植えられている。

朝には鳥の声が聞こえ、夜は涼しい風が土の匂いを運んでくるのだった。



玄関の脇には白雪雲陽花と山椒の鉢が並び、

磨かれた木の香りがほのかに漂っている。

靴を脱いで廊下に上がると、木の床がわずかに鳴って、

奥からは台所で湯を沸かす音が聞こえてきた。



庭緑が多く、どの部屋からも庭の木々が見える。

夏の光が葉の間を透かして床に揺れを落とし、

その影が壁をゆっくりと移動していく。

家全体が静かに呼吸しているようで、

訪れる者の心を穏やかに包み込むような温かさがあった。



「飲み物あるよ。」

白巴菜が冷蔵庫を開けて、麦茶を三つのグラスに注いだ。



ダイニングは木の床が陽の光を受けて淡く光り、

白いカーテンが風に揺れていた。

テーブルは楕円形で、表面には少し使い込まれた木目の艶が残っている。

中央には昨日摘んだ庭の花が小さなガラス瓶に挿してあり、

その横に麦茶の入ったピッチャーが置かれていた。



キッチンはダイニングとひと続きになっていて、

白いタイル張りの壁に吊るされた鍋やフライパンがかすかに光を返す。

流しの上には乾いた皿が伏せられ、

その隣には小さな電気ポットと、読みかけの雑誌が無造作に置かれていた。



冷蔵庫の音が低く響き、

その静けさの中で、氷がグラスに当たる澄んだ音だけが心地よく響いた。

三人が座ると、椅子の脚がわずかに床を擦る音がした。



「……夏休みの計画。」

羽青が言った。


ノエルはおもむろに手帳を取り出し、ページを開く。

表紙には「秘密神下僕計画」と大きな字で書いてある。


「……神を探し、下僕にする。」

ノエルは真剣な顔で言った。


「どこにいるの?」

白巴菜が苦笑する。


「わからない。でも、プール、旅行、買い物、食事……行く先々にいるかもしれない。」

ノエルの瞳は、いつになく真剣だった。


「……あのね、それ、ただ夏休みを満喫する計画じゃない?」

羽青が肩をすくめる。


「違う!神を見つけるんだもん。」


「……神を下僕にして、何するつもり?」

白巴菜が尋ねる。


「……世界征服!」


「……やっぱりそうだと思った。」

羽青と白巴菜は顔を見合わせ、同時に吹き出した。


夕暮れの光が、三人の影を部屋いっぱいに伸ばしていた。

こうして、ちょっと奇妙な夏休みの始まりが静かに幕を開けたのだった。




白巴菜がグラスをくるくると回しながら言った。

「……神探しってさ。漠然と探しても効率悪いかもね?」


「情報不足。」

羽青が一言、冷静に分析する。


「神で、しかも下僕になるタイプってことでしょ?」

ノエルは椅子に肘をつきながら真顔で言う。

「たぶん、変な奴だと思う。」


「変?」

白巴菜が眉をひそめる。


「行動が変とか、思考が変とか? 普通の人と違う雰囲気がある子ってこと。」

ノエルは小さく頷いた。


「変かぁ……」

白巴菜は、頭の中で何人かの顔を思い浮かべているようだった。


「そういえば。」

羽青が、少し思い出し笑いを含んだ声で言った。

「近所の子で、変わっている子いるよ。」


「誰?誰?」

ノエルと白巴菜が一斉に乗り出す。


羽青はにやにやしながら続けた。

「いつもノート持って、なんか書いてる。しかも歩きながら。」


「かわいい〜」

白巴菜が目を細める。


「その子に、この前、近所の女子が告白したら、ガン無視だったんだって(笑)」

羽青が肩をすくめる。


「変わってる〜」

「面白い〜」

ノエルと白巴菜が交互に反応する。


「眼鏡かけてる。たぶん小学生の2年くらい。ちっちゃいけど、雰囲気あるんだよね。」

羽青は水をひと口飲む。


「女子?男子?」

二人の声がまた重なる。


「女子だよ。」


「それキープ!」

ノエルが手帳に何かを書き込みながら言った。


「でも……」

羽青が少し声をひそめた。

「頭良さそうだし、下僕タイプじゃないっぽい。」


「頭良さそうって……?」

白巴菜が聞き返す。


「その子の宿題見てあげたことあって。教えようとしたら、いきなり高校の数学の問題解いてて。

こっちが『お姉ちゃん無理〜』って言ったら――」


羽青は一拍おいて、笑いながら言った。

「『無能』って言われた(笑)」


「うわぁ……」

ノエルと白巴菜が絶句する。


「それからちょっと……その子、気になってるんだよね(笑)」

羽青は照れくさそうに笑った。


ノエルはニヤニヤと頬を緩めながら、また手帳を開いた。

「“変でかわいくて、頭が良くて、小2女子、候補1号”っと……。」


「神っていうか、もうボスじゃない?」

白巴菜が笑いながら言った。


「でももしその子が神だったら、たしかに夏休みは面白くなりそう。」

羽青はちょっとだけ顔を赤らめて、窓の外を見た。

夏の雲が、ゆっくりと西の空へと流れていた。


そして、三人の“神探し”計画は、ひとつの手がかりを得て、ほんの少し前へと進んだのだった。

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