第20話
湯船に身を沈めると、羽青の身体は温かな水に包まれ、湯そのものに溶けていくようだった。湯の表面は微かに揺れ、光を反射して金色や銀色の波紋を作る。指先が水を掬うたびに、ゆるやかな水流が掌を撫で、背中に沿ってさざ波が広がった。身体の芯からじんわりと温かさが広がり、手足の先まで血液が流れ込むのを感じる。足の裏に伝わる湯の圧力と微細な振動が、心地よく神経をくすぐった。髪の毛は水に濡れ、濡れた髪の先端が肩や背中に張り付く感触が指先に伝わり、湯の温もりと混ざって異質な柔らかさを生む。
耳を澄ませると、湯の音がまるで一つの交響曲のように響いた。湯船の縁から流れ落ちる水の低い滴り音が一定のリズムを刻み、その間を泡が弾ける軽やかな音が縫う。かすかな湯気の立ち上る匂いには、微かに温泉特有の硫黄の香りが混ざっていて、さらに薬草の緑の香りや、壁際に置かれた花の微かな甘さが層を成して漂う。その香りは羽青の呼吸の度に鼻孔を撫で、心の奥まで染み込んでいく。水面に反射する光と湯の音の微妙な揺らぎが、視覚と聴覚の間に幻想的なリズムを生み、羽青の心をそっと落ち着かせる。
湯の中でじっと目を閉じると、周囲の世界が一瞬止まったように感じられた。身体の感覚だけが鮮明になり、湯の温もり、肌に触れる水流、髪の濡れた感触、掌を伝う小さな振動、そして心臓の鼓動と血流の響きが、全身に微細な波となって広がる。羽青は湯船の縁に手を置き、指先で湯の表面をかすかに掬い上げる。水の感触が掌から腕、肩、そして胸へと伝わり、まるで身体全体が水に溶け込んでいるかのようだった。
湯気に包まれた空間の中で、羽青の思考は静かに漂った。異界のざわめきや煩わしさは遠くに押しやられ、心はこの温かな湯の中に解き放たれる。思い浮かぶのは、微かに揺れる水面の光、滴る湯の音、泡がはじけるたびに立ち上る香り、それらすべてが心に柔らかな安堵を与える感覚だった。湯に浸かるたびに、自分の存在がこの豪華で静謐な空間に溶け込み、身体の感覚と心の感覚がひとつになっていく。
目を開けると、湯面に反射する天井の照明光が小さく揺れ、羽青の目をくすぐった。湯船の縁の石に触れる感触、肩に伝わる湯の圧力、手先を撫でる微細な水流、そして湯気が立ち上る際に鼻孔をかすめる香り――。
長く浸かるうちに、湯の温かさが内側から身体の奥に染み渡り、血流を促し、体全体が軽く、柔らかくなる。心の奥底から自然と深呼吸が出て、肺を満たす空気が身体の隅々まで循環する。湯の揺らぎ、滴る音、湯気の香りが身体と心を同時に刺激し、湯の中で指先を軽く動かすと、水面に小さな波紋が広がり、光が踊った。湯の底に手を伸ばすと、石の冷たさが微かに残り、その感触が温かさとの対比となって身体に刺激を与えた。羽青は湯の中で小さく身を揺らし、浮き沈みする感覚と水圧の変化を全身で感じた。身体の内側に広がる温かさが血流を促し、手足の末端までじんわりと伝わるのを確かめる。
湯船の端に額をつけ、閉じた瞼の奥で湯気の揺らぎや音の反射を感じながら、羽青は長い時間を忘れて浸かり続けた。湯の中で感じる微細な感覚と、漂う香り、そして揺れる光と音の微妙な交錯――。
***
湯船の湯がゆるやかに揺れて、蒸気がふわりと立ち上る。
羽青がぼんやり肩まで浸かっていると、そっと浴場の扉が開いた。
「羽青!」
「あ、青羽!」
同じ顔をした少女が、真新しいバスローブを羽織ったまま軽やかに入ってくる。
その姿は、先ほどまで部屋を案内してくれていた時と同じで、けれども、どこか嬉しそうに見えた。
「青羽、もう食事終わった?」
「済んだよ。羽青は?」
「私も終わったけど……あのね、ちょっと恥ずかしかったんだよ……」
羽青はお湯の中で膝を抱え、目線を泳がせる。
「……食事がね、口移しなの……」
「なにそれ?」
青羽が湯船の縁に腰を下ろして小首を傾げる。
「食事の決まりなんだって。お箸もフォークもなくて、メイドさんが咀嚼したご飯を口移しでくれるの。……私、赤ちゃんじゃないのに……」
「……あー、羽青はカテゴリー0だからね」
青羽は、あっさりと言って、バスローブを脱いで湯に入った。
しっとりとした髪が湯に広がる。
「カテゴリー0?それ何?」
「0歳児扱いってこと」
「はぁ!?」
羽青は湯の中で勢いよく立ち上がって、湯しぶきをあげた。
青羽はくすっと笑う。
「羽青、あなたが、この国に来たの今日でしょ?出生届が役所に出されたのが今朝だから、書類上は生まれたばっかりの新生児なんだよ」
「そんなの……なんか、むかつく……!」
「仕方ないよ。カテゴリー0の人は、魔界国ではすべて“完全安全保護対象”。移動も食事も入浴も、基本的にサポートつき。……だから口移しも当然、ってわけ」
「う……なるほどね……」
羽青は腰まで湯に沈むと、湯船の縁にあごを乗せてぼやいた。
「……なんか、生まれたばかりって言われると……悔しいけど、ちょっと面白い……」
「でしょ?」
青羽は柔らかい声で笑うと、そっと羽青の髪を撫でた。
湯の音が心地よく響いて、さっきまでの寂しさが少し薄れていくようだった。
「赤ちゃん扱いなんだから、羽青は……困ったことがあったら、ちゃんと誰かに言わないとダメだよ?」
「……うん、わかった」
「よし、じゃあ今夜は私が一緒にいてあげる。生まれたての赤ちゃんには保護者が必要だからね」
「やめてー!保護者って言わないでー!」
羽青の抗議は、大浴場の天井にやさしく反響した。
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