バス停でしか会えない

黒崎ゆみ

バス停でしか会えない

蛙がゲコゲコと合唱をする中、幸子は道を急いでいた。

畦道から開けた道路には、古くからの商店と数軒の家がたっている。

雨上がりの道路は、アスファルトがところどころに欠けていた。

水の溜まった窪みには、淀んだ空を映していた。

幸子は足元を確かめるように、慎重にその上を歩いた。

あと数歩先には、この辺で唯一のバス停がある。

看板は古く錆びており、風に揺れるとカタカタと鳴る。

「清原」という地名が一番上に丸く囲われて書かれている。

それをなんとなく確認してから、脇の小屋に目をやる。

誰かが作ったと思われる、バスを待つ人専用の小さな待合所。

木で作られており、窓までしつらえてある。

ありがたいことに、中には椅子が置かれ温かく迎え入れてくれる。

よく町の病院に行くのに、お年寄りが座っているのを見る。

幸子は椅子に座ろうとしたが、やはり濡れていた。

「これは座れないな…」

小屋に顔を突っ込んだが、すぐに引っ込めた。

バスが来るのにはあと10分ばかり待つことになる。

仕方ない、立っていようと、バス停の隣に移動したとき、音がした。

ザッザッ

足音だった。

薄暗くてよく見えないが、黒い影がこちらに近づいてくる。

「こんばんは」

そう声をかけてきたのは、少年だった。

「こんばんは」

バス停の上には電灯も何もない。

幸子はいつも怖い思いをして利用していた。

少年は短髪で、作業着姿がどこか時代を感じさせた。

今時の若い子の服装との、違和感を感じた。

こちらを見た時に、チラッと見えた顔はまだあどけなさが残っていた。

立ち姿は背筋がまっすぐで、姿勢が良く整った感じがあった。

雨はとっくにあがっているが、手には黒い傘を持っていた。

天気予報も晴れだったはず。

なのに、傘はきちんと畳まれて、

逆さまに手にしたその様子は、まるで居場所のない道具みたいだ。

長くて、細くて、そのまま地面を突き刺しそうなほどまっすぐ。

不思議だったのは、傘の「先」が上を向いていたこと。

普通じゃない。

だけど、それを本人は当然のようにしている。

ほんの一瞬、幸子は

「この少年は、どこか違う」と感じた。


バスが来るまであと2分くらいで、少年はバス停の時刻表に目をやり、

「次のバスで行かなきゃ」

と言った。

蛙がゲコゲコとうるさい中、少年とは特に話すこともなかった。

それから大きな音を響かせながら、バスは時間ぴったりに来た。

少年は、先にどうぞと、手で促してくれた。

幸子は一礼をし、バスのステップを登った。

バスの車内灯がゆらゆら揺れる。

運転席の横にあるプラスチックの料金箱に、お金カランと落としたが、その音はバスの振動にかき消されてしまった。


今夜も薄暗い車内は空いていた。

古さを感じる座席はところどころ擦れており、ぺしゃんこに潰れている。

それでも、座れば温もりを感じる。

幸子は、大体真ん中辺りを指定席にしていた。


座りながら体をクルリと向けると、先ほどの少年の姿が見当たらない。

少年は後ろの座席に、移ったのだろうか?と一瞬思った。

最初はそれ以上気にせず、確認したりはしなかった。

しかし、また次の日も同じことが起こった。

思い切って座ってからそっと、後ろを振り返る。

やはり少年の姿はなかった。

お先にどうぞ、とエスコートしただけで、少年はバスに乗らなかったのだ。


おかしい…何故?

次のバスで乗らなきゃと言っていたのに…。

幸子はバッグを抱えて首を傾げた。


街の灯りは雨あがりのせいで空気が綺麗なのか、キラキラと煌めいていた。

「病院前」

バス停で降りた幸子は、真ん前の大きな病院の玄関に吸い込まれてゆく。

真っ白な壁と床に囲まれた空間は、診療外のせいで照明が薄暗い。

奥のロッカー室で制服に着替えて、胸に名札をつけた。

「おはよう」

同じ夜勤の琴子が声をかけてくる。

「おはよう、今夜は橘先生?」

二人は勤務表を手に取ると、

「ああ、やっぱり橘先生だね、良かった」

と、琴子は笑った。

橘先生は患者さんにも優しく、評判が良かったからだ。

遅番さんと申し送りをしてから、点滴の準備をしていると、橘先生が現れた。

「おはようですー」

白衣とともに手には何やら、お弁当をさげていた。

「今日は愛妻弁当ですか?」

と弁当に気が付いた琴子が言うと。

「ああ、そうなんだよ」

と、橘先生は頭をポリポリした。


病院の夜勤はあまり忙しくはない。

容態が急変したり、急患がない限りは平和だ。

担当する病棟は3階の内科病棟。

21時に消灯をしてから、再度見回りに行けば昼、いや夜食になる。

幸子は小さなプラスチックのお弁当を広げながら、

「ここのところ不思議なことがあってさ」

と唐突に切り出した。

琴子は、今日はおにぎりを買ってきたと、フィルムを剥がしながら、

「ん?なに?なんかあった?」

と言いながら、どうやらスムーズに剥げなかった、おにぎりと格闘している。

「いや、あのね?わたしバスで通勤してるでしょ?そこで変なのよ」

幸子は少年の話をした。

「え?なにそれ?怪談?」

ご飯粒を口からこぼしながら、琴子は目を丸くする。

「いや、そんなんじゃないの」

と、苦笑いした。

あ、とふと思い出したように、

「でもね、次のバスで行かなきゃ

って言ったのよねえ」

琴子はその言葉の意味が、わからないというように首を傾げ、

「へえ…」

と言いお茶を飲んだ。


次のシフトは昼の日勤だ。

朝、幸子はバス停で待っていた。

あと10分ほどで来るだろう。

周囲は長閑な風景だ。

正面に小高い山があり緑で覆われている。

鷺が飛び、狩場を探しているようだ。

目の前の田んぼには水が張られており、この間のゴールデンウィークで稲が植えられたのだろう、道路に田植え機が通った跡が点々としている。

すると、腰の曲がった老婆が、こちらに歩いてきた。


ピンクの長袖のサラサラしたブラウスに、紫のパンツ。

手には茶色い巾着袋を持ち揺らして、片手に花を抱えていた。 

「はいはい、よっと、間に合った」

背筋を伸ばして、こんにちは、と言った

幸子は、

「こんにちは。いい天気ですね」

と言うと、老婆はさっさとバス停の小屋に入り、よっこらしょと椅子に座った。


「お出かけですか?」

と幸子が聞くと、

老婆は飴を差し出しながら小さく頷いた。

「うん、墓参りだよ」

そうでしたか、と幸子が前を向いたとき、老婆は少しだけ間をおいて語り出した。

「戦時中はね、ここにも木炭バスが走っていたのよ」

老婆はそう言って、手にしていた飴をそっと舐める。

幸子は老婆の方を向き直した。

「それも、物資が足りなくなって一時止まってしまって、不便になったわ」

風の音が少し強くなる。

老婆の声はか細いが、はっきりと届く。

「止まった日…ほら、戦時中だから、そういうのなんのお知らせもなかったの。誰も……バスが止まったなんて知らなかったのよ…」

老婆はバス停の向こうにある川のほうを、遠く眺めた。

「息子がね…その日、バス停で待っていてね、私を町に迎えに行こうとしてたのよ」

老婆は飴を口に入れたまま、しばらく何も言わなかった。

静かな息を吐いてから、頬を手で擦り、

「その晩、息子は川が増水して鉄砲水に巻き込まれちゃってね」

老婆は両手を組み、揉むようにして動かした。

「不憫なことを…まだ15だった」

飴の包みが、かすかにカサリと音を立てた。

遠くの鷺が一声鳴いた。


幸子は、何も言えなかった。

"戦時中"という言葉が頭の中でこだまし、あの少年の服と不思議な傘を思い出していた。

あれはー本当に、今のものだっただろうか。


バスは定刻通りに来た。

力強く振動するバスの音が、いつもより幸子の胸に響いた。

「次のバスで行かなきゃ」

少年は言っていた。

しかしそのバスは、突然あの夜に運行しなくなった。

「だから、乗れないのか…」

幸子は時刻表を見つめるあの横顔が脳裏に浮かんだ。


次のシフトは夜勤だ。

手にはまたお弁当を持った。

バス停につくと、電灯に気が付いた。

今まで真っ暗だったのに、

その灯りのおかげで怖くなくなった。

少年が来るかな?と待ってみたが、

来なかった。

バスは大きな車体を揺らしながら来る。

お先にどうぞと言ってくれた少年はいない。

バスに近づくと、オイルの匂いと、ガタガタという不規則な振動がシルバーのステップにも伝わる。

料金を支払い、いつもの真ん中の席に座り、バッグを胸に抱えた。

少しだけグワンと揺れて、バスは出発する。


バス停をふと見ると、

降り出した雨で、灯りが滲んで見えた。

誰かがそこにいたような温もりを感じる。

まるで夜のバス停を、見守っているかのように。

傘を開く少年の気配を感じた。

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バス停でしか会えない 黒崎ゆみ @yumi_kurosaki

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