七話 幻視の邂逅
夜が明けきる頃、遠征軍の前線野営地には冷たい霧が満ちていた。
前夜の会議でレオナは討伐隊を編成し、瘴気の森へ再侵入する強行策を決めた。
「血の王を討つには――
まず“獣姫”を倒す。」
地図に描かれた森の中心、そこに刻まれた赤い印を睨みながら、レオナは言葉を絞り出した。
副将グレンが問いかける。
「本当に奴は、人だったのでしょうか……?」
レオナの瞳に、あの血塗れの旗が過ぎる。
恐怖と、どこか遠い同情が入り混じる。
「人だった。
けれど、もう……人ではない。」
焚き火の上でゆらめく赤い光が、剣の刃を鈍く照らす。
討伐隊は選りすぐりの百名余り。
彼らは精鋭と呼ばれながらも、瘴気の森に足を踏み入れると誰もが声を失った。
苔むした大樹の根元には、赤黒い花が咲いていた。
花弁の奥に滲むのは、人の血のような生温かさ。
その中心で、獣姫メリアは静かに瞼を閉じていた。
森の腐狼たちが唸り声を上げる。
だがメリアは、何も命じない。
「……来るのね……」
指先を咬み切り、滴る血を根に落とす。
血は土に吸い込まれ、迷宮の神経のように森全体に浸透していった。
彼女は《夢幻の瘴気》――
幻影を操り、侵入者を迷わせる呪いを編み始める。
「私を討ちに来る……人間たち。
……でも、あなたたちは私を“人”として殺せるの……?」
赤い瞳が細く開き、僅かに微笑む。
討伐隊が森の奥へ踏み込んだときだった。
ひとり、レオナの視界が揺れた。
腐狼の群れも見えないはずの場所で、霧の奥に白い影が立っている。
「……お前は……」
獣姫――
白髪の少女が、幹の影からゆっくりと現れた。
赤い瞳、血に濡れた爪、
なのにその笑みは、どこか幼い少女の面影を宿している。
「あなたが……レオナ?」
幻影越しに響く声は、森の霧と同じ温度だった。
レオナは剣を抜く。
だが霧の中で、剣の切っ先は何も捉えられない。
「……なぜ、こんな姿に……!」
メリアは首を傾げ、小さく笑った。
「私を“生贄”にしたのは、あなたの兵たち。
わたしはあなたの“正義”が産んだ怪物。」
血の霧がレオナの周囲を這う。
彼女の心に罪悪感の刃が突き刺さる。
「来て……レオナ。
私を討ちに来て……
人間として殺して……できるなら、ね?」
霧が割れた瞬間、メリアの瞳が真紅に光り、
彼女の口元にわずかな血が滲んだ。
次の瞬間、幻影は霧に呑まれて消えた。
「メリア……!」
レオナの呼び声は森に吸われ、返事はなかった。
残されたのは腐狼の遠吠えと、
自分の胸を苛む“赦せぬ罪”だけだった。
瘴気の森の奥で、メリアは瞳を閉じた。
幻視の中で垣間見たレオナの心の揺らぎ――
それがどこか愛おしく、同時に爪先を疼かせた。
「私を人として討つ……?
ふふ……
どこまでできるのかしら……?」
血の王の玉座に繋がる根が、
静かに、ゆっくりと脈を打つ。
獣姫の心の渇きは、まだ尽きていなかった。
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