六話 夜明け前、遠征軍の前線
――王都イグナリオの迷宮、魔核の奥底。
赤黒く脈動する瘴気の光の中、玉座の王とその獣姫は静かに寄り添っていた。
腐狼たちは血の湖のように眠り、瘴気の根が壁を這い、
この空間だけが外の季節とは隔絶されたように、ひどく静かだった。
アルスの指先がメリアの血に触れる。
その温度はもはや人のものではなく、けれど微かに残る温もりがあった。
「……お前は、まだ夢を見ているのだな。」
低く、掠れた声だった。
王として全てを喰らい、全てを呪い、永遠の孤独に身を置いてなお――
この獣姫だけは、かつて自分が愛した何かを呼び覚ますのだ。
メリアは微かに笑い、赤く光る瞳でアルスを見上げた。
「夢を見てはいけないの……?
私はあなたの花嫁……
あなたの孤独の中で、夢の欠片くらい残してもいいでしょう?」
爪先が石床をかき、血の王の影に溶けていく。
やがてアルスの影は、メリアを抱くように瘴気を纏わせた。
「……夢の代償は血だ。
お前が渇きを忘れるその日まで、
血で夢を繋げ。」
獣姫はその言葉を受け止めると、闇に潜む腐狼たちに命じた。
瘴気の森の更なる深奥へ――人の血を呼び寄せる罠を張るために。
一方その頃――
瘴気の森を越えた場所に張られたノルテア連邦遠征軍の野営地は、
夜が明けきらぬ空の下、不穏な緊張に包まれていた。
焚き火の明かりが揺れ、血に染まった斥候の鎧が並ぶ。
斥候部隊が瘴気の森から掬い上げてきたのは、
《銀の熊》のものとみられる折れた剣と、獣の爪痕の刻まれた血染めの旗だけだった。
中央の天幕――
そこではレオナ・アステールが地図を睨んでいた。
顔色は青ざめ、だがその瞳は静かに獣を狙う刃のように研ぎ澄まされていた。
副将のグレンが声を落とす。
「……これが、先遣隊の最期……。
普通の眷属の群れだけでは、こんな潰滅はありえません。」
レオナはゆっくりと息を吐くと、血に濡れた旗を指先で撫でた。
布に染み込んだ瘴気が、指先を伝って冷たく心臓を締めつける。
「……この血の中に、何がいる……?」
かすかに揺れる炎が、地図の上に赤黒い森を映し出す。
《瘴気の森》――
その奥に“何か”がいる。
ただの眷属の巣ではない。
王都を迷宮化する核にして、血の王の孤独を喰らう“獣”――
レオナの背筋に氷の棘が走った。
「……生贄の噂があった。
王都が堕ちる前――見せしめとして差し出された少女がいたと。
まさか……」
テントの奥で、若い兵士たちが怯えたように息を飲んだ。
生贄が、瘴気の眷属に成り代わり、王の傍に座する――
そんな話は、古い迷信に過ぎなかったはずだ。
だが今、血の霧に満ちた旗がそれを告げている。
「“獣姫”……。」
レオナは低く言った。
この戦は王都奪還だけでは終わらない。
血の王の孤独に囚われ、復讐を果たしたはずの少女が、
王の花嫁として、どれほどの絶望を産むのか。
レオナは振り返り、グレンを見据えた。
「……作戦を変える。
瘴気の森を焼き払うだけでは足りない。
あの獣姫を討たねば、王都は永遠に“迷宮”の檻だ。」
冷たい夜風がテントを揺らす。
遠征軍の兵士たちの間に、言葉にできない恐怖が走った。
だがその恐怖を呑み込むように、レオナは剣の柄を強く握りしめる。
「次に血を流すのは……
私たちの番だ。」
遠く離れた王都の最奥。
血の王と獣姫は、再び深い闇の中に身を沈めていた。
メリアの心の奥には、まだ人の記憶が燻っている。
それが渇きを呼び、愛を呼び、やがてもう一度――
血を呼ぶ。
玉座の影は、ゆっくりと迷宮全土を覆い尽くそうとしていた。
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