八話 幻惑の森、分断の始まり

 瘴気の森に差し込む陽の光は、まるで血の霧に溶かされるように赤黒く濁っていた。


 討伐隊の兵たちは、先頭を行くレオナの剣を頼りに進んでいたが――

 森の奥へ踏み込むにつれ、視界は霧に霞み、誰の声も届かなくなっていった。


 「……おい……グレン……? そこにいるのか……?」


 若い兵士が誰かを呼ぶ声が森に滲む。

 答えはない。返事をしたのは、森の奥の“影”だった。


 ガサ……ガサ……。

 濡れた葉の向こうに立っていたのは、白髪の少女――獣姫メリア。


 血に濡れた唇が歪むと、その背後で腐狼の群れが闇に蠢いた。


 「……誰だ……!」


 兵士が剣を振り上げるよりも速く、

 腐狼の牙が喉元を食い破った。


 溢れた血が瘴気に吸われ、森の樹々を赤く潤す。


 《幻惑の根》――

 獣姫メリアの血から生まれたこの森は、侵入者の心の弱さを食い物にする。


 兵たちは恐怖と幻覚に囚われ、

 仲間の声を頼りに進もうとすれば、その声すら罠に変わる。



 その頃、レオナは迷い込んだ霧の中で、幻影の中に囚われていた。


 ――赤黒い靄の向こう。

 聞こえてくるのは仲間の断末魔。


 「やめろ……やめろ……メリア……!」


 剣を握りしめた手が震える。


 《銀の熊》の最期の光景。

 メリアが“人としての復讐”を終えてなお、獣として人を裂く姿――

 それが幻視の中で何度も繰り返される。


 「レオナ……見て。

  あなたの“正義”が、私をこうしたのよ……。」


 幻影の向こう。

 獣姫メリアは幼い少女の声で、かつての純粋さを残す笑みを浮かべていた。


 「私を討てるの?

  あなたが私を獣にしたのに?」


 柔らかく笑うその瞳の奥に、冷たい獣の光が宿る。


 「私はもう人じゃない。

  だから……人間を、喰らう。」



 レオナの耳に、森の奥から無線の悲鳴が響く。


 『隊長! 包囲が……クソッ……化け物が――!!』


 『後退……できな……ぎゃああああっ――!』


 叫び声は霧に吸われ、次の瞬間には静寂が訪れる。

 赤黒い花が地面に咲き、血の池が根を潤す。


 腐狼たちの遠吠えが木々を震わせるたび、

 討伐隊の兵たちは自分がいつ幻惑に囚われ、

 仲間を敵と見誤るかもわからずに剣を振り回すしかなかった。


 霧の中で、レオナは崩れ落ちた。

 膝の上に剣を置き、血まみれの手を見つめる。


 「……私が……私が産んだのか……

  こんな怪物を……」



 幻影の向こうで、メリアの声が優しく囁く。


 「レオナ……

  私を殺しに来たのなら……

  もっと私を見て……

  もっと絶望して……

  もっと……あなたの血で、わたしを満たして……」


 レオナの瞳に、涙が滲んだ。

 その涙は、瘴気の森の霧に吸われ、

 次の恐怖を呼び寄せる餌となる。



 瘴気の根は更に森を覆い、

 人の血を吸い、腐狼を育て、

 玉座の王へと渇きを伝えていく。


 獣姫メリアの爪は、すでに次の狩りのために輝きを増していた。

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